「なんだ。まだ何か用?」
昨日の今日でまた文句を言われるのだろうか。やはり海藤は璃仁のことを永遠に敵視し、魂ごと掴んで離してくれないのかと思うとぞっとした。
しかし海藤は璃仁の予想に反して、これまでの意地悪な表情ではなく、慈悲に満ちた顔をこちらに向けていた。
「違う。しおを、しおを、守ってくれ。俺は、だめ、みたいだから」
苦痛に歪んだその表情を、璃仁は脳裏に焼き付ける。きっともう二度と、彼と話をすることはないだろう。海藤は海藤なりに、傷つき折れてしまった羽を、上手にしまおうとしているのだ。
「……分かった」
たった一言それだけ言い残して璃仁は教室を後にした。後ろから、「おい、いいのかよ」という海藤の取り巻きたちの声がしたが、その声も廊下の窓の外から聞こえてくる雨音にかき消されてしまった。
胸騒ぎがするとき、大抵は雨が降っている。いや、それは心理的な思い違いで、たまたまそういう日が記憶に強く残っているだけかもしれない。
どこだ。どこにいるんだ。紫陽花先輩は、いったいどこに——。
校舎から出るとき、璃仁は3年生の下駄箱を確認しに行った。紫陽花先輩の下駄箱には上履きが置かれていた。そこでちぃ先輩に会い、「紫陽花は少し前に教室を出たよ」と教えてもらった。少し前ならば、駅までの道でまだ追いつけるかもしれない。そう思い、焦る気持ちを押さえつけながら、全速力で駅までの道を走った。傘をさすと速く走れないので、傘は学校に置いて。
「あっ」
あと信号一つ越えれば駅に着く、という時に交差点で一人の女子高生が信号を待っているところが目に入ってきた。間違いない。紫陽花だ。
「先輩!」
声を張り上げて紫陽花のことを呼ぶ。だがそこで、信じがたい光景を目にした。
「え? きゃあっ!」
璃仁の前をさっと通り過ぎた黒い人影が、紫陽花の後ろから彼女を押さえつけ、口元を塞いだ。