「……海藤」
自分でもびっくりするくらい暗い声だった。もし今の声を暗闇で聞いたら身体を縮み上がらせてただろう。見れば海藤の方も、璃仁を見て目を大きく開いている。
「なんだよ」
唾を吐き捨てる海藤に、璃仁は不思議とまったく心が揺らがなかった。黒い塊が腹の底に巣くっていて、ちょっとやそっとのことでは壊れそうにない。
下を向き微動だにしない璃仁を見て、海藤は何も言えない様子だった。隣で紫陽花が息を飲む音が微かに聞こえてきた。
紫陽花のことを絶対に守る。
自分に言い聞かせた璃仁は、唇を噛み締めた。
「俺はお前を許さない」
自分の口から漏れ出てきた本音に、ああそうだったのか、と自分で頷いていた。
璃仁は海藤のことが心の底から憎かった。でも、本心をあらわにすれば、余計ひどい目に遭うのが目に見えていた。だからこそ、今まで本気で対抗しようとは思わなかった。口では抵抗したこともあったが、どこかでずっと「やられるのではないか」という恐怖が付きまとっていた。
しかし、紫陽花を傷つける海藤には本気で立ち向かいたいと心が叫んだのだ。
「は? 許すとか許さないとか知らねえよ。元はと言えばしおのせいなんだぞ? お前がでしゃばってくんな。俺はしおと話したいんだ。しおの口から愛してると聞きたいんだ。しおは俺のもんだ。お前はしおの何者でもねえ!」
紫陽花のことを罵倒しながら、狂おしいほどの愛を向ける海藤を、璃仁ははっきりと敵だとしか思えなかった。紫陽花は肩を震わせ、今にも抱きついてきそうな海藤から自分の身を守ろうと、璃仁の後ろに隠れた。その行動が、海藤の怒りを買ったらしい。海藤は大きく腕を振りかぶり、璃仁の頬に一撃をくらわせた。
きゃあ! という通行人の叫び声と、璃仁くん! という紫陽花の声が頭上で重なった。と同時に、頬に鈍い痛みが広がる。
「ふ、ふざけるなよ……俺がどれだけお前に自由にさせてきたと思ってるんだ。俺は俺のことならばまだ耐えられる。でも、でも……紫陽花先輩を傷つけるのだけは絶対に許さない。相手が誰であっても、紫陽花先輩だけは俺が守る」
「クソッ」
スイッチの入った海藤が、璃仁の胸ぐらを掴みにかかる。頬の痛みも消えぬまま、璃仁は海藤のみぞおちに拳を突き出した。
「んぐっ」
人を殴ったのは生まれて初めてだった。怖くて手も足も震えていた。でも、璃仁の後ろでもっと震えているはずの紫陽花の気持ちを思うと、ここで引くわけにはいかなかった。
海藤は腹を抑え、地面にうずくまる。だが、すぐに立ち上がって璃仁の顎を下から蹴り上げた。のけぞるようにして横に倒れる。紫陽花の悲鳴が上がる。やめて、という聴衆の声がぐわんぐわんと頭に響く。目を血走らせた海藤がまた近づいてくる。「お前たち、やめるんだ!」と叫びながら大人が駆け寄ってきた。