「どうしましょうか」
璃仁もまだ目を覚まして間もないので、今日の予定など何も考えられていなかった。ただ紫陽花をあの母親から守ろうと決意しただけで。
「とりあえず、お風呂入ってくる!」
「え? あ、はい」
紫陽花はさっとベッドから降りてユニットバスの中に吸い込まれていった。確かに昨日はバタバタして、ホテルに着いてそのまま眠ってしまっていた。男の自分は良いとしても、女の子の彼女はお風呂に入りたいだろうということは璃仁でも分かった。
お風呂場から聞こえてくるシャワーの音をBGMに、璃仁は今日この後のことを考えた。
とりあえずホテルは出なければいけない。一泊しか取れていないので、もし今日もホテルに泊まるのだとすれば他のホテルに行かなければ。
行き当たりばったりな生活になりそうだというのに、璃仁は不安どころかワクワクしている自分がいることに気がついた。
お風呂場から紫陽花の鼻歌が聞こえてくる。紫陽花の方も、この訳のわからない状況を楽しんでいるようだ。
案外似た者同士だな。
しばらくして紫陽花がお風呂から出てきた。もともと着ていた浴衣をもう一度羽織り、乾き切っていない髪の毛をタオルで拭きながら荷物をまとめ出した。璃仁は思わず息をのんで、何も気にしていない素振りで紫陽花と同じように鞄に荷物を詰める。もともとほとんど中身を出していなかったので、準備はすぐに整った。
「洋服を買いに行きましょう」
支度を終えた紫陽花が提案する。突然そう言われたので、璃仁は「えっ」と聞き返した。
「だから、洋服。このままじゃ目立つし、動きにくいでしょ。それに璃仁くんは靴だってないんだし」
そう言われて璃仁は昨日下駄が壊れたことを思い出す。
「確かにそうですね。買いに行きますか」
紫陽花がにっこりと微笑む。これから服を買いに行くということは、紫陽花もこのまま家に帰るつもりではないということだ。やはり、あの母親の元に今すぐに戻るのは危険だろうし、紫陽花がいいのなら璃仁はどこまでも彼女についていこうと思う。
紫陽花に見えないところで母にさっと連絡を入れた。しばらくはうちに帰らないかもしれない。友達と旅行に行ってくる。あんたお金あるの? お小遣い貯めておいたから大丈夫。そう、じゃあ行ってらっしゃい。
信じられないが、母は璃仁の無茶な言い分もすんなり受け入れてくれた。他の家庭ならこうはいかないだろう。なんだかんだで、母は璃仁のことを信頼しているのだ。ある程度自由にさせておいても構わないと思っているのだろう。昔からそうだ。璃仁のやることなすこと、ほとんど自由にさせてくれていた。もっと心配してほしいと子供の頃は思っていたのだが、今となってはその寛大さがありがたかった。
「大丈夫? お母さん心配しない?」
璃仁がスマホの画面とにらめっこしているのを見て不安に思ったのか、紫陽花がそう訊いてきた。自分の母親はめちゃくちゃなのに、他人の母親のことを心配するなんて、紫陽花もよっぽど人がいい。
「ありがとうございます。こっちは大丈夫です」
「そっか。それじゃあ本日もよろしくお願いします」
恭しい態度で頭を下げる紫陽花がおかしくて、もし自分が笑顔恐怖症でなければ笑いが止まらなかったことだろう。
ひとまずはまだ、紫陽花と一緒にいられる。
ワクワクする場面ではないのだろうけれど、この非日常に胸を高鳴らせている自分は馬鹿だなと思った。