「すみません。初めて聞きました」
「謝らなくていいよ。普通は知らないだろうから。幸福恐怖症はその名の通り、幸せになるのが怖いって思う心の病気なの」
幸せになるのが怖い。
あまり理解できそうにない感覚だった。でも、なんとなくだけど、身に覚えがないこともない。
たとえば大好きな人と仮にお付き合いまで漕ぎ着けたとしても、もしその先にお別れする未来があるのなら——今この瞬間に感じている幸せが崩れ去ってしまうとしたら、幸せになるのが怖いと思うかもしれない。あるいは、幸せすぎて怖い、というようなことは確かに存在する。幸せにも限界点があって、いつかはその幸せが不幸のどん底まで落ち込んでしまうかもしれない。そう不安になる気持ちは確かに分かるのだ。幸福は不幸の前触れだと思う感覚は、確かに璃仁の中にも存在していた。
「幸せになるのが怖いってなる原因はいくつかあるみたいだけど……私の場合、原因はお母さんだった。お母さんは昔から男癖が悪いっていうのはもう知っての通りだと思うけど、自分は不幸だと思う気持ちが人一倍強いんだ。だからこそ男といるときに幸せが最高潮に達して、失ったときにどん底に落ちるのよ。私はそんなお母さんの姿を何度も何度も見てきたから、お母さんが幸せに対してとても執着ある人なんだって分かった。お母さんが不幸な状況にいるときに、私が外で友達と遊んで楽しい気持ちで帰って来たらこう言われるの。『どうしてあなたは幸せそうなの? 私はこんなに不幸せなのに!』って。同じようなことを何回も言われて、手を出されたこともあった。そんなことを繰り返すうちに、私はだんだん幸せになるのが怖くなっていった。私が幸せになれば、お母さんが不幸になる。私が幸せになれば、喚かれる。叩かれる。痛い思いをする。心が痛くなる。いつしか自分に暗示をかけてるみたいになって、気がついたら幸福恐怖症に陥ってた」
紫陽花の口から吐き出される衝撃の事実に、璃仁は胸にずっしりと重たい何かがのしかかるような苦しさを覚えた。我が子の幸せを心から喜べず、自分の不幸感を増長させる母親が生きづらそうなのは想像がつくが、それ以上に心から幸せな気持ちになることを許されなくなった紫陽花が不便で仕方なかった。
璃仁は紫陽花にどんな言葉をかければいいのか分からない。しばらく迷っていると、紫陽花が再び口を開いた。
「ねえ璃仁くん、私はこのまま一生幸せになるのが怖いって思いながら生きていくのかな? それって、そんなのって、本当に楽しい人生だって思えるのかな?」
泣きそうな声で震えている紫陽花は、これまで目にしてきたどの紫陽花とも違っていた。紫陽花に話しかける前は、美しく気高い存在であり、他人に対しどこか冷めた感じの人なのではないかと勝手に思っていた。でも、話してみると姉御肌で人の話を真剣に聞いてくれて、出会って間もない後輩の璃仁に優しくしてくれた。
一時は拒絶されたものの、パパ活の噂をきっかけに再び一緒にいる時間が増えた彼女はもう、璃仁の憧れの先輩としてではなく、ただ一人の女の子として璃仁の隣にいてくれている。そんな彼女が見せる弱音を、今度は璃仁の方が優しくすくいとってあげたいと思った。