「って、その話じゃなくて、デートの話」

「すみません」

「いや、いいけど。一緒に桃畑に行ったこと、覚えてる?」

「もちろん覚えてますよ」

 忘れるはずがない。初めて自分から気になる人をデートに誘って実現した日のことだ。紫陽花と気まずい距離を感じながらも初めて二人で遊んだことは記憶に新しい。

「そっか。実は桃畑はね、お母さんの故郷なの」

「故郷……そうだったんですか」

 確かにあの日、どうして紫陽花は学校の後輩との初デートに桃畑という場所を選んだのかとずっと疑問に思ってはいた。その答えをようやく聞くことができて妙に納得した。

「小さい頃にお母さんと何度も桃畑に行ったの。私は甘い香りのするあの場所が大好きだった。丘から見た景色も最高だったでしょ? 桃畑に行く時はいつもおばあちゃんに会いに行ったから、それも楽しみだった。おばあちゃんは3年前に亡くなってしまったけど、私にとっては今でもあの場所が忘れられないたった一つの“幸せ”の象徴なの」

 紫陽花の口から、「幸せ」という単語が出てきて一瞬どきりと心臓が鳴った。幸せとは溺れて息ができなくなることだと、あの日彼女は傾きかけた太陽の光にさらされながら告白した。そんな彼女の思う「幸せ」と今彼女が漏らした「幸せ」は似ても似つかない、遠い場所にあるもの同士に感じられた。

 桃畑が紫陽花にとってそれほど大切な思い出の場所ならば、あの日撮った風景写真を「感傷に浸る用だから」とSNSにアップしなかった理由もわかる。きっと、大切なものをそっと自分の心にだけしまっておきたかったのだろう。紫陽花の大事な思い出の詰まる場所を、自分にだけ見せてくれたのだと思うと、紫陽花が璃仁に対して本当は特別な感情を抱いているのではないかと錯覚した。

「私は……私は、幸せになるのが怖いの。『幸福恐怖症』って聞いたことある?」

 喉の奥から絞り出すようなか細い声だった。打ち明けるのに相当勇気がいったのが分かる。璃仁はその聴き慣れない病名に首を捻った。