震える紫陽花の手を引いてマンションの廊下を走る。下駄の鼻緒が切れて、璃仁は下駄を脱いだ。紫陽花が驚いた目で璃仁を見ている。片手に下駄を、もう一歩の手で紫陽花の手を握りながら、エレベーターまで走った。一刻も早くあの母親から離れたい。紫陽花をこれ以上母親の元に置いておくわけにはいかない。本能が璃仁の足を突き動かした。

 やって来たエレベータに乗り、二人でタワーマンションから飛び出す。

「どこに行くつもり?」

「決めてない! でもここじゃない、二人だけの場所に行く」

 計画などむろん何もなかった。ただひたすら紫陽花の自宅から離れることだけを考えていた。そろそろ日付が変わる時間が近づいている。夜の住宅街は静けさと、薄暗さに沈んでいくようだった。最寄駅まで走ると一心不乱に電車に飛び乗る。電車の中で親に「今日は友達の家に泊まる」とだけ連絡を入れた。母ならば何か察してくれるだろう。「了解」とだけ返事が来たのでほっと胸を撫で下ろした。

「……なんかゴメンね」

 電車の椅子に腰掛けた紫陽花が、疲れ切った様子で吐息を吐いた。璃仁は紫陽花の肩をそっと抱き寄せる。恥ずかしいといった感情はなかった。自然とそうしたいからした、というのが正しい。紫陽花の方も璃仁の肩に頭を預けてきた。

「謝ることじゃないです。俺は、紫陽花先輩には笑っていてほしいから」

 自分は笑えないくせに他人には笑ってほしいと思うなんて滑稽だろうか。でも、紫陽花は璃仁の言葉に安心したように目を瞑った。電車の中は、璃仁たち以外に人がいなかった。もうみんな帰宅してベッドに入っている時間帯だし、上り電車に乗っているから納得がいった。

 先ほど花火大会の帰りに乗った繁華街の駅で電車を降りた。一緒に花火を見たのがもうとうの昔のように感じられる。それぐらい身も心も疲弊していた。

「足、痛いよね」

 いまだ裸足のままの璃仁の足を見て、紫陽花がため息をつく。ちょっと待ってて、と彼女が言い、駅前のコンビニまで走って行った。買って来てくれたのは男性用の靴下だ。

「さすがに靴は売ってなかったけど、せめてこれを履いて」

「ありがとうございます」

 優しく温かな紫陽花の気持ちを受け取った璃仁は、差し出された靴下に足を通した。これだけで足の痛みがずいぶんと楽になった気がする。