「あんた、紫陽花の彼氏? 母親がこんな状態になってるっていうのに、自分は幸せに過ごしていたって言うの? 浴衣ってことは花火大会ね? ありえない! あんたまで私を捨てるの? 自分だけ幸せになって私を不幸のどん底に突き落として! そんなの許せない。あんただけが幸せになるなんて許さない!」

 紫陽花が片方の手で片方の耳を塞いだ。目をぎゅっと閉じて母親の声が聞こえないようにしている。璃仁はこの母親のあまりの剣幕に気圧されそうだった。彼女の言葉を聞くだけで精神的に追い込まれていく。じわじわと身体中の汗が吹き出してきて、せっかく父親から借りた甚平が汗で濡れていく。気持ち悪い。一刻も早くこの場から離れたい。そうしなければ自分も紫陽花もおかしくなってしまうだろう。

「ねえ、どうして私ばっかりいつもこうなの? 私はただ、幸せになりたいだけなのに。どうしてみんな私を捨てる? どうしてあんただけが幸せになれる? 私が今までどんな想いであんたを育ててきたか、考えたことある? あんただけが幸せになるなら、私はこれ以上不幸になるってことよ。そんなのかわいそうでしょ。ねえ、育ててくれた母親にそんな思い、させたくないわよね?」

 呪詛のような言葉を紫陽花の耳元で囁き続ける母親を見て、璃仁は完全に「狂っている」と確信した。この人は、大事な娘が嫌な思いをすることより、自分が不幸になることの方が耐えられないのだ。娘だけが幸せになるのも耐えられない。だから紫陽花が璃仁と一緒にいること自体、許せない。

 璃仁は目の裏で光がチカチカと明滅するようなめまいを覚えながら、どうするべきか必死に頭を巡らせていた。その刹那、バチンという鈍い音が耳に飛び込んできて、気がつけば母親が紫陽花の頬を思い切り引っ叩いていた。紫陽花が叩かれた頬を抑える。見ているだけで泣きたくなるくらい悲惨な光景だった。もうこれ以上、紫陽花と母親を接触させてはいられない。意を決した璃仁は紫陽花の空いている方の腕を握った。

「ここから逃げましょう」

 涙目を向ける紫陽花と、憎しみのこもった表情で璃仁を睨みつける母親が同時に視界に飛び込んでくる。母親の方には顔を向けず、紫陽花だけを一心に見つめた。紫陽花の喉がこくんと動き、彼女が息を飲んだのが分かった。それが肯定の合図だった。璃仁は紫陽花の腕を強く引き、無理やり母親から引き離す。髪を振り乱した母親は紫陽花の腕をもう一度掴もうとはしなかった。去ろうとする娘を引き止めるほど、紫陽花に思い入れがないのだと分かり、それが悔しく切なかった。