「あんた、こんな時間までどこに行ってたの!?」
ヒステリックなおどろおどろしい声で紫陽花の腕を掴んでいたのは、ボサボサの頭をした女だった。その女の恐ろしい形相に、璃仁は思わず後退りした。厚化粧をしているのに目の下にできている黒いクマが隠せていない。おそらく年齢的にはかなり若い方だとは思うが、悲惨な容貌のせいで10歳は歳をとって見える。この人が紫陽花の母親? 正直全然似ていない。それになんだ、この悲壮感は。彼女から発せられる暗いオーラに、こちらまで引きずり込まれそうになった。
「お母さん、今日は酒井さんと出かけてるんじゃなかったの?」
引っ張られた腕を庇いながら紫陽花が母親に問いかけた。酒井さんというのは、例の紫陽花の新しい父親になる人のことだ。先月居酒屋の前で彼女が待っていた中年男。つまり、紫陽花の母親の恋人ということになる。
紫陽花の母親は紫陽花と璃仁を交互に睨みつけ、「あ〜あ〜!」と発狂したように髪の毛を掻きむしった。髪の毛がはらはらと床に落ちる。紫陽花の白いうなじを見る。美しい彼女が汚されていくようで怖かった。
「ええそうよ。出かけてたのよ。帰りは明後日になるはずだったのに、途中であの人に電話がかかってきて、トイレに行くって言ったきり戻ってこなかった。何回電話しても出ない。その時点でもう1時間は過ぎてたわ。仕方ないからあの人の家に行ったら、中に誰かいるじゃないの。は? 私とのデートは? って思って、ドアを開けたら中に誰がいたと思う? そうよ。あの男よ。若い女も一緒にね。ほんと、ありえない! むかつく! 来月には結婚しようって言ってたくせに! 嘘つくならもっとマシな嘘つきなさいよ。ばれてもいいって思ったんでしょうね!? じゃないとあんな姿で玄関のドアに鍵もかけずに抱き合うかっつーの! スリル満点なのが好きなの? 気持ち悪い、吐き気がする!」
ペッと、実際に唾を吐き捨てた紫陽花の母親は紫陽花を憎々しげに睨んでいた。紫陽花の身体は小刻みに震えている。璃仁の方も気がつけば震えが止まらなかった。
この人が、紫陽花から聞いた母親なのか……? 紫陽花が愛しい、と目を細めて思い浮かべていた人。大切に傷つかないように、見守っていた人。だけどこの人はたぶん、紫陽花のことなんて今は頭になくて、自分を捨てた恋人への憎しみでいっぱいなんだろう。顔を歪め悪口を言う彼女は、天敵に仇を打とうとしている動物そのものだった。
「お母さん、やめて。痛いよ」
紫陽花の腕を掴む母親の手が真っ赤に染まり血管が浮き出ている。きっとすごい力で紫陽花を締め付けているのだ。璃仁はすかさず紫陽花の腕から母親の手を離そうとした。すると母親が璃仁の目をぎろりと睨み威嚇するように吠える。