海藤から嫌がらせを受けているとは言えなかった。以前本を窓から投げ捨てられたところを紫陽花先輩に慰めてもらったが、その張本人が彼だということも。クラスメイトから揶揄われていることを好きな女の子に知られるということほど惨めなものはない。

「そう。あの人は、昔の知り合い」

 ぽつりと、蚊の鳴くような声で紫陽花が漏らした。単なる知り合いではないことぐらいは分かったが、それ以上聞かないで欲しいということだと察した璃仁は「そうなんですね」とだけ言い押し黙った。

「お互い、面倒なのと知り合いなんですね」

「ええ」

 海藤が紫陽花にどんなふうに接していたのかは分からない。でも、少なくとも紫陽花にとって海藤が害悪であることは間違いない。璃仁にとって彼がそうであるように。

「私たち、似た者同士だね」

「そうかもしれません」

 同じ人物から逃げてきた璃仁と紫陽花は二人して悪いことをしたみたいでなんだかおかしかった。紫陽花が璃仁の目を見てクスクスと笑っている。璃仁もつられて笑いそうになるが、昔からガッチリと凝り固まった口角は絶対に上がることはない。
 やがてタクシーが繁華街にたどり着き、璃仁たちはタクシーから降りた。時刻は午後9時半。早く電車に乗らないと帰るのが遅くなってしまう。

「紫陽花先輩、家まで送りますよ」

「え、でもそんなの悪いよ」

「いいんです。それより女の子を一人で家に帰らせる方が心配です。こういう祭りの日って、浮かれた変質者がいてもおかしくないですから」

 浮かれた変質者、という言葉がおかしかったのか、紫陽花がまた手を口に当てて笑った。

「ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えようかな」

 紫陽花が右手を璃仁の方に差し出してきた。璃仁は何も考えずにその手を握り返す。このほんの些細な行為でさえ、紫陽花の心が自分に近づいている気がして胸が高鳴った。

「行きましょう」

 紫陽花がこくんと頷く。自分の左手の中に収まる紫陽花の右手をこれでもかというぐらい強く握りしめた。打ち上げ花火よりも美しい彼女を独り占めしているようでちょっとした罪悪感さえ芽生える。彼女の温もりを、璃仁は一秒だって長く、強く、感じていたかった。