「はあ……はあ……もう、大丈夫かな」

「たぶん大丈夫と思う。ごめんね、気遣わせちゃって」

「いや、こっちは大丈夫だけど。すごいね。まるで有名人だ」

 有名人には変わりないのだろうけれど、実際にファンたちを目にすると紫陽花がただ者ではないのだと思い知らされる。かく言う璃仁ももともとはSHIOのファンだった。今は学校の後輩としてお近づきになれているが、紫陽花を見つけて目を輝かせていた彼女たちと一緒なのだ。

「夜だし花火だし、みんな周りのことなんか気にしてないって思ってたけど、甘かったかなー」

 紫陽花が小さく笑う。まるで逃走劇のような一幕を思い返すと、璃仁もなんだかおかしくなってきた。

「人気者は辛いですね」

「ええ。辛いですよ」

 ノリノリで答える紫陽花がいま、璃仁だけを見てくれていると思うと嬉しい。かつて十数万人もいるフォロワーの一人に過ぎなかった璃仁が、紫陽花の手を引いて一緒にファンから逃げているなんて。信じられないけど現実だ。紫陽花の手は、今も璃仁の手の中にすっぽりとおさまっていた。

「帰ろう」

「そうですね」

 周りの人間たちが駅の方へ向かって移動している。あまり会場に長居してしまえば電車に乗り損ねるのが目に見えていた。
 璃仁たちは手を繋いだまま駅の方へ歩き出す。駅の前から電車で帰宅しようとしている人たちが長蛇の列をつくっており、家に帰れるのは一体何時になるのだろうかと先が思いやられた。でも、そのおかげで紫陽花と長く一緒にいられるのは嬉しかった。紫陽花も同じ気持ちだったらいいのに、と望んでしまうのは欲張りだろうか。

 璃仁たちはお互いの手を握り合ったまま電車を待つ人の列に並ぶ。お互いに何も言わない。祭りの後の余韻にひたすら浸っていた。言葉がなくても、居心地の悪さはまったく感じられない。紫陽花と二人の間に流れる空気は、いつからか自然で心地よいものに変わっていた。

「あれえ、もしかして、田辺かあ?」

 不意にねっとりとした口調で後ろから呼びかけられ、璃仁の背筋が凍りついた。振り返らずとも分かる。嫌味たらしい喋り方と声の持ち主に、璃仁の心臓の動きが速くなる。

 璃仁よりも早く後ろを振り返ったのは紫陽花だった。