「浴衣なら俺のを貸してあげよう」

 璃仁たちの会話を聞いていた父が徐に立ち上がり、箪笥から茶色の甚平を取り出してきた。うちにこんなものがあるなんて思っ
てもみなかった璃仁は驚く。

「ずっと昔に着てたんだ。もう着ることないし、お前にあげるよ」

「あ、ありがとう」

 父から麻布の甚平を受け取る。約束の時間まであと一時間もなかったので、さっそく甚平に着替えた。

「あらいいじゃない。若い頃のお父さんを思い出すわ〜」

「璃仁、いつのまにか成長したな」

 二人が揃って璃仁の甚平姿を褒めるものだからなんだか恥ずかしくなってきた。思えば人生で浴衣を着るのは初めてかもしれな
い。もっとも、記憶がない幼少期に着たことがあるのかもしれないけど。

「璃仁、あんたせっかくお祭りらしい格好してるんだからむすっとしてちゃダメよ。笑いなさい」

 不意に母の口からこぼれた「笑いなさい」という言葉に、璃仁の心臓がドクンと跳ねた。笑えない。璃仁は、母に「笑っていれば大丈夫」と言われ、教室でいじめられてもニコニコしていた惨めな日々を思い出した。あのときのことを思うと今でも古傷が疼く。

「そうだな。せっかくのデートなんだしな」

 事情を知らない父親も母の言葉にのって煽りを入れる。気分は裁判官にじっと睨まれる被告人のようだ。母に肩を掴まれて鏡の前に立たされる。

「はい、笑って!」

 悪気のない言葉に、璃仁は無理やり頬を持ち上げて笑顔をつくろうとした。

「うわ、ぎこちなっ!」

 鏡越しに母が顔を歪ませたのが見えたが、その母の顔よりももっと顔を引きつらせているのは璃仁だった。

「……急に言われても無理だよ」

 ため息をつきながら母に弁解する。たぶん、璃仁でなくとも急に「笑え」なんて言われて笑える人間は少数派だろう。

「そ、そうねえ。まあ好きな子を前にしたら自然と笑えるか!」

 母は勝手にはた迷惑な結論を導き出し、「強制笑顔練習」は終了した。まったく、そんなことをいちいち親に心配される歳でもないのに。母や父にとって、璃仁はいつまでも子供なのだと思い知らされる。

「うわ、もう時間じゃん。そろそろ行ってくるわ。帰りは10時過ぎると思う」

「分かったわ。行ってらっしゃい。気をつけてね。それと、デート楽しんで!」

「ちゃんと結果聞かせろよ」

 いちいち「デート」というところを強調してくるから、始末が悪い。璃仁は子供みたいな母と父を置いて家を出る。夕暮れ時の空は茜色に染まっていて、風もなく花火にはぴったりの日だ。甚平姿なので祭り会場に着くまでは外を歩くのに恥ずかしさを覚え身を縮こませていたが、電車に乗り港公園駅が近づいてくるとちらほらと浴衣姿の人たちが増えていったので、ようやく肩の荷を下ろせた気分だった。