朝起きると蝉の鳴く声がぐわんぐわんと耳の奥で反響する。そんな夏の風物詩にもそろそろ身体が慣れてきた。
8月上旬、夏休みが一週間過ぎたがまだまだ夏はこれからだと学生たちが息巻いている時期に、紫陽花から璃仁のLINEにメッセージが届いた。
「明日、花火大会に行かない?」
それだけのとてもシンプルな文面だった。寝ぼけまなこでスマホを眺めていた璃仁は、思わず飛び上がってスマホを落としそうなほど驚いた。こ、これはデートの誘いではないか!? 不意に、GWに二人で出かけた日のことを思い出す。デートというデートはあれ以来だった。しかも、今回は紫陽花に「そばにいていい」というお墨付きをもらったあとだったので、余計に嬉しかった。高鳴る心臓を手で押さえながら、璃仁は素早く返事を打つ。
「もちろんです! 花火大会って、港祭りのことですよね? 行きましょう。ぜひ!」
すぐに送信してしまったのだが、あとから冷静に見ると文面に喜びがにじみ出ていてちょっと気持ち悪い。もう少しスマートに返事を送ればよかった。と後悔してももう遅い。璃仁は送信したメッセージにいつ「既読」がつくか、じっとスマホの画面を見つめていた。
果たして「既読」は5分後についた。紫陽花の返事が待ち遠しい。なんなら、明日の夜がもう待ち遠しかった。
「ありがとう。それじゃあ明日、6時に港公園の駅前に集合ね。よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げるパンダのスタンプが送られてきて、璃仁の方も「OK」と手を上げるひよこのスタンプを送った。やりとり自体はそれだけだったけれど、このシンプルな会話のおかげで生まれた喜びは、人生で一番なのではないかというほど大きかった。
璃仁が夏休みに入ってからも相変わらず両親は忙しそうに仕事に出かけている。璃仁ははというと、毎日やることがないので昼間は家でゲームや読書をして夜になると塾に行くというルーティンを繰り返していた。そろそろ何か刺激が欲しいと思っていたのだ。もし紫陽花から何もアクションがなければこちらからデートに誘うつもりだったのだが、まさか彼女の方から誘いが来るなんて。自分で誘うよりも数百倍は嬉しかった。
この日の夜、塾では先生の話がまったく耳に入ってこなかった。明日のことでとっくに浮かれてしまっていた。おかげで授業後の小テストが不合格になり、居残りをする羽目になった。それでも、全然苦じゃなかった。自分には明日の紫陽花とのデートがある。それだけで居残り補習の間もせっせと問題を解くことができた。
何もない、ともすれば苦痛でしかなかった高校生活が、一気に彩られていく。これまで蕾だった花が一斉に花を咲かせたかのように、青い芝生に美しい色をつけていく。紫陽花の存在そのものがまさに花のようだ。
璃仁はスタンプで終了した二人のトーク画面を何度も見つめた。いくら見たってその後紫陽花から新しいメッセージが送られてくることはないと分かっていたのだが、彼女との甘い思い出がつくれることに興奮が止まらなかったのだ。こんなところを紫陽花に見られたらたまったもんじゃない。きっと気持ち悪いと思われるだろうな。
その日の夜、璃仁はなかなか寝つくことができなかった。カーテンの隙間から漏れる月明かりをぼんやりと眺める。明日の夜、この月明かりの元で美しい彼女と同じ時を過ごせるのだと想像し、全身が喜びで包まれるのだった。