「……幸せになってほしいの」
「え?」
「私、お母さんに、幸せになってほしい。誰よりもずっと」
恍惚とした彼女の表情が、璃仁の脳裏に焼きついた。
紫陽花の言葉が、本当に彼女の本心だということが伝わってくる。
「お母さんが幸せになってくれないと困るの」
たぶん紫陽花は、これまで母親と男の関係が悪化する様子を何度も見せられて、心が擦り減っているのだろう。我が子に泣きついて「私には紫陽花しかいない」と子供みたいに反省する母親が哀れで、でも放っておけなくて、母親を愛する気持ちがどんどん強くなっていった。紫陽花の心の声が手にとるように伝わってきて、璃仁はどうしようもないほど胸が締め付けられた。
「きっと、今度こそ大丈夫ですよ。って、赤の他人の俺が言うのも変ですけど」
「うん。酒井さんはいい人だから」
酒井さん、とは今度紫陽花の母親と結婚する予定の男のことだろう。紫陽花がパパ活をしていると勘違いされることになった元凶の人物。紫陽花とその男との背景にこれほど切実な彼女の願いが隠されているなんて思ってもみなかった。自分はまだ子供だった。紫陽花のことをあれほど好きだと言ったのに、紫陽花の心の中を全然想像すらできていなかったのだから。紫陽花の母親を想う気持ちには到底及ばない。
「紫陽花先輩」
もう何度呼んだか分からない。愛しい人の名前を口にすると、その人は大きな瞳を切なげに揺らし、「なに?」と聞いた。
「俺、紫陽花先輩のそばにいてもいいですか? 紫陽花先輩とお母さんが幸せになるのを、一番近くで見ていたいんです。ダメだと言われれば身を引きます。これ以上、紫陽花先輩とは関わろうとしないと約束します。だから」
彼女のSNSを見るみんなが心を虜にする紫陽花が、剥き出しの状態で璃仁の言葉を真正面から受け止める。ここには綺麗な景色も美しい花もない。キラキラしたSNSの世界で「幸せテロ」だなんて思われる要素は一つもない。あるのは無機質な白い壁や布団だけだ。でも、璃仁を見つめる紫陽花の心は、今まで一番すぐそばにあるような気がした。
「はい。そばに、いてください」
紫陽花の目が一瞬潤んで、璃仁の手をきゅっと握った。璃仁は思わず声を上げそうになったが、ダサいので必死に堪えた。二人の間を流れる沈黙が、居心地の良いものに感じられた。
紫陽花は璃仁のことを好きだとは言っていない。でも、単なる通りすがりの学校の後輩から、少なくともそばにいて欲しいと思われるくらいには彼女の心にお近づきになれているのだ。それだけでもう十分、舞い上がりそうなほど嬉しかった。
ただ今はこの静謐で神聖な空気を壊したくなくて、紫陽花の目を見て微笑むだけだった。紫陽花がようやく璃仁の目を真っ直ぐに見てくれている。そんな紫陽花の心を、もう二度と失いたくないと思った。