自分は笑うことができないのに、他人には笑っていて欲しいなんて自分勝手な願いかもしれない。でも、紫陽花の笑顔を見られれば璃仁は明日を強く生きる勇気が湧いてくるのだ。
静寂に包まれていた病室に、紫陽花の息遣いがそっと聞こえてくる。夜眠る前、小さな子供に絵本を読んであげる時のような優しい吐息にも聞こえる。ここ数ヶ月の間、璃仁が感じていたかった彼女の生命の営みが、今ようやく璃仁の手の中にあるのだと実感した。
「璃仁くん……」
紫陽花が璃仁を呼ぶ声が、胸をじんわりと熱くした。これまで散々璃仁を避けていた紫陽花が、ようやく璃仁の方に歩み寄ってきてくれていると思った。
「私はあなたのことを避けてた。怖かったの。私、自分の感情が分からなくて、これ以上璃仁くんと一緒にいたら自分が壊れちゃうんじゃないかって。その結果あなたを傷つけてしまうかもしれないと分かっていても……。本当に、ごめんなさい」
啜り泣くように胸の内を打ち明ける紫陽花が、璃仁の中からこぼれ落ちてしまわないようにしっかりと抱きしめる。璃仁のことを避けて逃げていく紫陽花を、これまでどうしても捕まえることができなかった。もどかしい気持ちでもがいていた日々が懐かしい。
紫陽花が自分に対してどういう感情を抱いているのか、具体的に教えてはくれなかったけれど、今はまだこれが紫陽花の精一杯なのだと悟る。少なくとも、嫌われているわけではなかったのだと分かり、安堵のため息が漏れた。
肌や、耳や、鼻の感覚が目覚めた時から徐々にはっきりと自分のものとして戻ってくる。病院独特の薬品の匂いや窓から差し込む日差しの温かさ、廊下を歩く人の足音を感じた。そんな感覚とは正反対に、病院の一室が神聖な空間であるかのように、静けさとこみ上げてくるいろんな感情で満たされていた。
「紫陽花先輩の本音を、初めて聞いた気がします」
「そう、かな」
「はい。これまでも本音で話してくれていたとは思いますけど、今日が一番です。取り繕わない先輩の方がずっと綺麗です」
綺麗だ、という言葉に紫陽花がきゅっと一瞬だけ身を固くしたのが分かった。彼女を抱きしめていると、ほのかに香る柑橘系の
匂いが璃仁の心を癒した。こうして紫陽花とくっついていることが夢のようで、またすぐにいなくなってしまうのではないかと怖くもあった。
「あの人はね」
何を思ったのか、紫陽花が突然「あの人」と切り出して璃仁は誰のことだろうと考える。
「……パパ活だって噂される原因になった人」
ああ、もしかして紫陽花が一緒に居酒屋に入っていった男の人のことか。
「その人が、どうしたんです」
紫陽花は璃仁に中年男について打ち明けてくれるのだと分かった。自分から話し始めたものの、少し逡巡するような素振りを見せて、紫陽花は言葉を繋いだ。
「私のお父さんになる予定の人なの」
「え?」