紫陽花が包丁を持っていた右手を掲げ、鋒を首筋に当てる。「やめてください」という掠れた声が自分の口から吐き出される。紫陽花はその声にまったく動じない。白い首から一筋の血が流れ落ちる。
「こんなところ見せちゃってトラウマだよね。ごめんね」
「紫陽花先輩、あんなやつら放っておけばいいんです。紫陽花先輩のことを悪く言うやつらのことなんか、無視してくださいよ。
それで俺の言葉だけ、聞いてくださいよっ」
紫陽花が包丁を首筋に当てたまま璃仁の顔をじっと見つめていた。璃仁の言葉を聞こうとしてくれているのだ。今しかない。彼女を救えるチャンスは今この瞬間しかないのだ。
「人の噂なんてすぐになくなります。みんな、今は面白がって紫陽花先輩の噂を立てていますけど、もう少ししたら絶対に飽きて何も話さなくなりますって。そんな気まぐれな人たちのために、紫陽花先輩が傷つくのは絶対におかしいんです。お願いです。信じてください。俺の言葉を信じて」
紫陽花が例のパパ活の噂の件でクラスメイトから孤立させられて、ここまで追い詰められているなんて、璃仁は思ってもみなかった。強くしなやかな紫陽花があんな下品な噂に動揺するはずがない。心のどこかで紫陽花は大丈夫だと高を括っていた。でも、紫陽花の心はこんなにも傷ついていた。誰かの心ない噂話を聞くたびに、少しずつ毒をもられていくように心が壊れていったに違いない。噂話が立ち始めてまだ一週間と経たないが、この数日は紫陽花の心を砕くのに十分すぎる時間だったのだ。そんなことに今更気づいた自分が情けなく、やるせなかった。
紫陽花は何度も瞬きを繰り返して璃仁の言葉を聞いていた。まるで溢れ出そうになる心の枷を食い止めるかのような仕草だった。もう少しで紫陽花を止められる。そう自信が湧いたその時、紫陽花が包丁を握る手にぐっと力を込めたのが見て取れた。まだだ。まだ彼女の傷は治っていない。璃仁は竦んでいた足を無理やり動かして、紫陽花の元に駆け寄った。
「やめてください!」
彼女の手の中から包丁を奪おうと柄を握る。
「いやっ」
彼女は引き止めようとする璃仁の手を振り解こうと強い力で腕を振った。
「私は、あなたみたいにはなれないっ。あなたみたいにキラキラした目で、誰かを想うことなんてできないっ。してはいけないの」
鋒が、璃仁の首元をざっと深く切り裂いた。突如襲ってきた鋭い痛みに、璃仁は呻き声をあげる。驚いた紫陽花の手から包丁が滑り落ちる。金属が地面に落ちた時の独特な音が、薄れゆく意識の中で響いて聞こえた。
「田辺くん!」
紫陽花の叫びを聞いたとたん、璃仁の意識はそこで途切れた。