一階に降り、下駄箱を目指す。一階には理科室や社会科資料室などの特別教室があり、その横を通り過ぎた。ギギ、という何かが床を擦れる音と、金属のものが床に落ちる音が聞こえて、璃仁は足を止める。無視して通り過ぎても良かったのだが、嫌な予感がした。勘としか言いようがないが、そのままスルーして進むことができなかった。
 音が聞こえてきたのは家庭科室だった。理科室の隣に位置する家庭科室の扉に手をかける。

「失礼します……」

 中にいるのが先生かもしれないので、そっと扉を開く。もし先生だったら、何事もなかったようにすっと扉を閉めよう。そう決めていたのだが、目に飛び込んできた光景に、璃仁は身を固くした。
 家庭科室の一番後ろに、彼女が立っていた。
 ただ立っていたのではない。彼女の周りには木製の椅子がいくつも転がっていた。先ほど聞こえてきた音は、椅子が倒れる音だったんだろう。彼女はまだ璃仁の存在に気づいていない。腰をかがめ、「何か」を手にとる。床に落ちていたそれを握りしめた彼女と、璃仁の目がようやく合致した。

「な、何してるんですか……?」

 鋭利な包丁を持つ紫陽花の目が遠くから見ても虚ろで、とてもじゃないが放っておくことはできなかった。そもそも、彼女がどうして家庭科室にいるのか、荒れた椅子の真ん中で包丁を握りしめているのか、見当もつかなかった。

「これ、ダメだよね。包丁を置きっぱなしになんかしたら。先生、回収するの忘れちゃってたんだね」

「そう、なんですか。先生に届けないと。良かったら俺、届けますよ」

 気が動転していた。
 紫陽花が単に家庭科室で回収し忘れた包丁を見つけ、先生に届けようとしているだけなのだと信じたかった。でも、どうして紫陽花は家庭科室になんか来たんだろう。ふつう、家庭科室になんて家庭科の授業以外では来ない。それなのにわざわざ家庭科室にやってきたという事実だけで、紫陽花の手に握られている包丁が、怪しく光って見えた。

「届けなくていい」

 小さな子が母親に抵抗するような様子で大きく首を横に振った。

「それじゃあ、どうしてこんなとこにいるんですか。なんで」

 包丁なんて握りしめているんですか。
 そう訊こうとしたところで、自分の声がひどく震えていることに気づいた。紫陽花が家庭科室で包丁を握りしめている理由を聞いてしまえばもう後戻りはできない。

 美しく人気者の紫陽花のことを、ただ好きだと思っていた自分に。

「ほら、よく漫画とかで学校の屋上から飛び降りるシーンあるでしょ? それじゃあまりにありきたりだから、私はここに来てみた」

 それがすべての答えだということが分かり、頭から地の底に落ちていくような恐怖と不安に駆られた。紫陽花に近づきたいのに、足が動かないのだ。璃仁は食い入るように紫陽花の顔を見つめた。こんな時にも関わらず、紫陽花の艶のある美しい髪の毛や瞳に、見惚れてしまいそうになった。妖艶な香りを放ち敵が近づいてくるのを静かに待っている花のように、彼女は存在するだけであらゆる人の心を鷲掴みにする。