紫陽花がパパ活をしているというクラスメイトの誤解を解いたつもりでいたが、事はもっと深刻な状況だった。
その日、体育の授業を隣の3組と合同で行っていたのだが、3組の人間が紫陽花について噂しているのを聞いた。
「やっぱりあの話って本当だったのかな?」
「うん。横山なんてゴールデンウィークにも崎川先輩がおじさんと一緒のところ見たって言ってたもん」
「うわ、常習犯じゃん。もしかしてそれ以上のことやってるかもよ」
「崎川先輩、美人で写真も綺麗ですごく憧れてたのにぃ」
女子が嘆きつつも面白がって噂をしている声、男子が本気で紫陽花に失望したと残念そうに語る声が、体育の時間ずっと璃仁の耳にこだました。紫陽花のことをこんなに多くの下級生が知っているだけでも驚きなのに、悪い噂を立てられて心配だった。
紫陽花。崎川先輩。崎川さん。紫陽花先輩。
周りの人間の口から次々と飛び出す紫陽花の名前に、改めて彼女が学校でも特別な存在なのだということを思い知る。そんな人間と自分が知り合いであることが幻なのではないかとさえ思う。だが、みんなが口々に噂をしているのは紛れもなく、あの天使のような美しい先輩のことだった。
体育の時間だけじゃない。昼休みには廊下を歩いただけで紫陽花の噂をする女子グループとすれ違った。下校中も、翌日の登校中も、聞こえてくる「パパ活」というワードに背筋が凍りついた。こんなにも多くの人間が紫陽花のことを蔑んでいる。きっと本人の耳にも届いているはずだ。璃仁は、噂話を聞いてしまった紫陽花の精神状態が不安だった。
噂が立ち始めてから5日後、1学期の終業式が訪れた。
講堂で校長先生の話を聞いているあいだ、璃仁は上級生の座る列にじっと注目していた。3年生、2年生、1年生の順に前から座っていたので、3年生たちが座っているのが後ろからよく見えたのだ。
紫陽花の姿を必死に探したけれど、後ろ姿では到底見つけることができなかった。
やがて終業式が終わり、後ろ髪を引かれる思いで教室へと戻る。通知表を渡されてクラスが解散した。
「夏休み中に女といちゃつくなよ」
海藤が面白がってちょっかいをかけてきたが、海藤を睨みつけただけで反論はしなかった。今は海藤なんかよりも紫陽花の顔を見たい。自分が紫陽花の身を案じるような立場ではないことは重々承知していたが、ここ数日間学校中を流れる心ない噂話に、璃仁の方が耐えられなくなっていたのだ。もしかすると、本当に紫陽花は男の人とそういうことをしているのではないかと疑うことさえあった。
本人の口から、どうしてもあの夜の真相を聞きたかった。
仲良さげに一緒に居酒屋に入っていったあの中年男とはどういう関係なのか。あの夜のことを見られていたと知った紫陽花は怒り出すかもしれない。それでも構わない。紫陽花の潔白を、胸を張って信じたかった。
放課と同時に教室を飛び出す。向かうのは3年1組の教室だ。3年生もすでに解散をしているクラスが多く、1組も例外ではなかった。璃仁は教室に飛び込みそうな勢いで扉の前に立ちはだかった。
果たして教室に紫陽花は——いなかった。
まだ教室に半分くらいは生徒が残っていた。3年1組が解散したのは少し前なのだと分かる。こうなったら駅まで走るしかない。道中で紫陽花を捕まえるのだと踵を返したところで、ある人物に呼び止められる。
「……きみ、また来たの」
ちぃ先輩だった。変わらず頭の高いところで括られたポニーテールは以前会った時よりも若干長くなっているような気がした。
「こ、こんにちは。あの、紫陽花先輩は」
璃仁が自分の教室に来たということは紫陽花を探しにきたのだと瞬時に理解したのだろう。ちぃ先輩は残念そうに首を横に振った。
「そうですか。分かりました」
先輩から答えを聞かずとも、教室に紫陽花がいないことは明白だったのですぐさま走り出そうとした。だが、ちぃ先輩がなぜか璃仁の右腕を掴んだせいで、勢い余って後ろに身体が引っ張られた。