翌週の金曜日の晩から、さっそく塾に通うことになった。自転車を濃いで20分のところにある街中の塾だった。意外にも大きくて内心焦る。ビビりながら塾の扉を開けると事務員と思われる女性に案内され、教室に入った。
璃仁は知らなかったが、この塾は全国チェーン展開しているらしく、通っている生徒の学校は様々だった。それが逆に璃仁の心を安心させ、授業に集中することができた。ここには璃仁の知り合いはいないし、誰も璃仁に関心を持たない。みんな、勉強をしに来ているのだ。中には授業に集中しない人もいたが、だからと言って他人に迷惑をかけるようなこともない。通塾一日目にして、不思議な居心地の良さを覚えていた。
3時間みっちり授業をして塾が終わると、数学担当の先生にどうだったかと聞かれた。璃仁は素直に「分かりやすかったです」と答え、先生は満足そうに頷いていた。
建物から出ると、すっかり暗くなった街の様子に、タイムスリップしたような気分になった。集中して頭を使ったせいか、全身が凝り固まっていた。伸びをしつつ自転車に跨り、やって来た道を引き返す。夏の夜の虫が鳴いて、来週から夏休みなのだと気づいた。
自転車を漕ぎ始めて5分、夜の繁華街を走っているとふと前方の飲食店の前に佇む女性の姿が目に飛び込んできた。金曜日の夜ということもあり仕事終わりのサラリーマンや大学生らしき人が多い中、その女の子は自分と同じくらいの歳に見えた。心臓がバクバクと激しく暴れ始める。その少女が誰なのか、遠くからでも一瞬で分かってしまった。
「紫陽花先輩!」
気がつけば名前を呼んでいた。しかし紫陽花には届かなかったようで、ぼうっと遠くを眺めて立っていた。誰かを待っている。いつか、駅前のカフェの前で佇んでいた時と同じように、その目は璃仁ではない別の誰かを探していた。
自転車だったので彼女に近づくのに時間はかからなかった。ようやく紫陽花のところまで声が届くという距離にまで近づいたところで、璃仁は足を止めた。
道の先からさっと人影が現れて紫陽花の前で立ち止まった。背丈は175センチほどの男だ。男が現れたことで、璃仁はとっさに道の端に身を隠す。紫陽花に自分の姿を見られたらまずいという直感が働いたのだ。陰から紫陽花と男のやりとりに耳をそば立てた。
「遅くなってすまなかったね」
「いいえ。そんなに待ってないので大丈夫です。お仕事はもう大丈夫なんですか?」
「ああ。早めに終わらせてきた」
「それはそれは、ありがとうございます」
「お店、こんなところで良かった? お酒飲めないのに」
「いいんです。居酒屋のご飯って嫌いじゃないですし」
「そっか。それじゃあ入ろう」
それだけ言葉を交わすと、男と紫陽花は寄り添うようにして店の中に消えてしまった。お店がカフェやファストフード店なら入ってみても良かったが、居酒屋だ。それ以上、彼女のあとを追いかけるわけにもいかず璃仁はしばらくその場で自転車に跨ったまま立ち尽くしていた。
それにしてもあの男はいったい何者なんだろう。
見た目はすらっとしていて清潔感のある中年男性という印象だった。会話の内容からして父親ではないだろう。もしかして紫陽花はああいう歳上の人が好きなんだろうかと嫌な想像をしてしまう。そういうタイプの人間もいるだろうから、否定はできない。何より紫陽花が男子からの告白を拒んでいるように見えるところが、璃仁の想像をより強固なものにした。
「はは、それじゃ無理だ」
もしかして、璃仁が拒絶されるようになったのも、紫陽花が璃仁の愛情を感じ取って、これ以上近づかないようにしているからかもしれない。私はあなたみたいな子供には興味ありません、ということか。そう考えると、紫陽花の行動に説明がつく。きっとそうだ。そうに違いない。でなければ、紫陽花が中年男性とこんな時間に待ち合わせをしている理由「が分からないのだ。
居酒屋ののれんがゆったりと扉の前に垂れ下がっている。璃仁が決してくぐることのできないそれは、璃仁のことを通せんぼしているかのようだ。璃仁はその場で項垂れて、茫然自失状態で自転車のペダルに足をかける。ゆっくりとペダルを漕ぎ始めると、全身にまとわりつく夜風が夏の夜にもかかわらず冷たく感じた。
男の正体が誰なのか、自分と頑なに話そうとしない紫陽花がどうして男とは普通に言葉を交わし、一緒にご飯を食べるのか、頭の中がぐちゃぐちゃになりそうなほど考えた。けれどどれだけ思考を巡らせても答えが出るはずもなく、いつしか紫陽花と男のいる店から早く遠ざかりたいとだけ願っていた。