各授業で期末テストの結果が返ってきた。璃仁の出来はいつもより悪い。それもそうだろう。人間関係に悩む璃仁が、まともに勉強に打ち込めるはずがないのだ。
 答案用紙を小さく畳んで鞄の中にしまう。とにかく今は紫陽花との関係を前に進めることだけを考えたかった。授業中に眺めた窓の外、昼休みの廊下、帰宅途中の道、常に彼女の姿を探した。夏休みが近づき教室の空気が弛緩している間、来る日も来る日も紫陽花を探した。図書室や3年1組の教室に行けばいるのかもしれないが、どうせまた拒絶されるのは分かっていた。あくまでも偶然に、彼女と出会いたい。不意打ちでなければ話をしてくれる気がしなかった。

「璃仁、ちょっと話があるんだけど」

 蝉の声が本格的な夏の到来を感じさせる7月半ば、家に帰ると母親が仕事にも行かずに待っていた。夜の仕事は休みなのだろうか。1ヶ月以上前に同じように仕事が休みだった母から、紫陽花との関係についてアドバイスをされた日のことを思い出す。あれからほとんど状況は変わっていない。今度は何を言われるのだろうと身構えた。

「そんな怖い顔しないでそこ座りな」

 真剣な表情をした母親の前では璃仁は抵抗などできず、言われるまま食卓についた。

「何? この前の話の続きならいいよ。特に進展とかないし」

 あれこれ聞かれるのは心地が悪いので、先に璃仁の方から断りを入れた。だが、母は「何のこと?」と小首を傾げるばかり。あれ、違う話だったのか。それならば余計なことを言うんじゃなかったと後悔する。

「勘違いしてるのかもしれないけど、私が言いたいのは勉強のことよ。あんた、そろそろ塾にでも行ってみない?」

「塾? やだよ。大体うちにはそんなお金ないでしょ」

 予想外の話が出てきて璃仁は困惑した。塾なんて、今まで考えたこともなかったのだ。習い事や塾はお金のかかるものだから、小さい頃から諦めてきた。水泳やテニスなんかを習ってみたかったけれど、申し訳なさそうにする両親の顔を見て、「習いたい」と言うのはやめた。
 それなのに、なぜ今さら塾なんか。
 うちの学校にも塾に行っている生徒はたくさんいる。大学受験をする連中にとっては塾に行くのは普通のことなのかもしれない。
 母親は璃仁の返事が予想通りだったのか、ニヤリと笑っていくつかの塾のパンフレットをテーブルの上に並べた。どうやら情報は収集済みらしい。

「お金なら大丈夫。こんな時のために貯めてきたのよ。それに、市から習い事で使える助成金が出るみたい。だからお金のことは
気にしないでちょうだい。ね、塾行かない? この間のテストだって成績下がってたんだしいい機会じゃない。ね?」

「はあ」
 母親がここまで乗り気になるともう誰にも止められない。
 正直、お金の問題さえなければ塾に行ってもいい、と思い始めていた。これまで習い事という習い事をしてこなかった璃仁は、塾に通うということが新鮮に感じた。

「……どの塾に行けばいいの」

 璃仁がそう聞くと、母の顔がぱあっと明るくなった。その言葉を待ってましたと言わんばかりにテーブルの上のパンフレットの中身を一つずつ説明してみせた。璃仁は半分上の空で母の話を聞いていた。正直どこでもよかった。母が一通り説明を終えると、一番説明に力の入っていた塾のパンフレットを指さした。母の顔が余計に嬉しそうに綻ぶ。

「良かったわ。お母さん、申し込みしておくから来週からでも行きなさい。早く行くに越したことはないわ」

「分かった」

 母の提案を、特に抵抗をせずに受け入れた。母が渡してくれたパンフレットを手に2階に上がる。学校の教室はそろそろ居場所がなくなっていてので、塾に行くのもいいかもしれない。なんて、今まで進学のたびに考えてきたことが再び頭をよぎって虚しくなった。