その日以降、璃仁はご飯が食べられなくなった。
 食べたいという人間の一次的欲求が消え失せているのだ。小学校の時、初めてクラスメイトからからかわれた日もそうだった。突然ご飯を食べる量が減った璃仁に対し、母親は心配そうな表情を浮かべていたが、何も聞いてこなかった。ただ毎日、同じ量のご飯をよそい、璃仁が全部食べるのを見守ってくれていた。そのうち璃仁もショックだった気持ちがだんだん薄れていき、元のようにご飯を食べられるようになった。

 しかしその後璃仁がクラスメイトからいじめられる頻度が増え、その度に食べる量は減っていた。母は暗黙の了解のように璃仁のお茶碗に半分ほど残されたご飯を自分のお茶碗に移した。体重の増減も激しく、減っている期間が普通になってしまっていた。だから璃仁の身体は標準からすると痩せている方だ。

 今回も、母は何も言わずに璃仁がご飯を残すのを黙って見ていた。2週間前に璃仁の悩みを聞いた母だから、思うことがあるのだろう。璃仁も、いちいち母親に事後報告などしないので、お互いの心を察し合っているような状況だった。
 このまま、紫陽花に対して何もできずに関係は終わっていくのだろうか。
 ベッドの上に寝そべると、いつも紫陽花のことが頭に浮かんだ。他に考えることは何もない。学校の成績はそれほど良くないが、悪くもなかった。難しい大学を目指しているわけでもないから勉強の悩みはない。そうなると思考が自然と好きな彼女に向かってしまうのも仕方がないことだろう。

 他人と関わることを苦手に感じていた璃仁にとって、紫陽花は初めて自ら積極的に関わりたいと思う相手だった。初めて紫陽花のSNSの投稿を見た日のことを思い出す。そこに広がっていたのは、璃仁の知らないきらびやかな世界だ。その中でも、彼女の投稿には不思議な華があった。妖艶な香りを漂わせて蝶を誘う花のように、言葉では表現し難い魅力を感じたのだ。

 紫陽花とまた会いたいという気持ちはあったが、紫陽花に対してこれまでにない感情が膨れ上がっていることに気がついた。スマホの画面を開き、紫陽花の連絡先を眺める。紫陽花のアカウントの右上にある設定ボタンを押して、「削除」の項目を探している自分がいた。
 璃仁がこんなにもまっすぐに紫陽花とぶつかろうとしているのに、紫陽花は逃げてばかりでまったく向き合おうとしてくれない。璃仁の中で激しく燃えている感情は、怒りだった。

「ひどいですよ」

 「削除」ボタンに手をかけると、全身の毛が逆立った。
 苦労して手に入れた紫陽花の連絡先だ。紫陽花のことを知りたくてたまらなかった自分が、生まれた初めて勇気を振り絞って聞き出したのだ。それを、燻り始めた怒りの感情によって消してしまおうとしているわけだ。
 あまりにも一方的で自分勝手な感情だ。客観的にはそう思うのだけれど、湧き上がってくる気持ちを止めることはできない。

「ふっ……」 

 震える指が「削除」ボタンに触れかけたとたん、急に力が抜けて、スマホごと右手がベッドの上に堕ちていった。

「はははははは」

 自分の口から笑みが溢れていることが信じられなかった。
 何がおかしいのかといえば、たぶん、こんなに心をかき乱されるほどに、紫陽花のことを好きな自分が滑稽だったからだろう。
 もはや愛していると言っても過言ではない。だが、そんな言葉を口にすれば気持ち悪がられるのは自明のことだった。璃仁は、自分が紫陽花に対して向ける愛を拒絶されること怒っていたのだ。
一度燃え上がってしまった愛と怒りの二種類の炎をどちらも消すことができずに、璃仁はベッドの上で目を閉じた。