耳に残る嫌らしい声だった。見られていた。紫陽花と話しているところを。よりにもよって、一番見られたくない人に。その事実だけで全身が震え上がりそうなほどの羞恥が頭を熱くしたのに、悪意を含んだ海藤の声に苛立ちを隠せなかった。
「……お前には関係ないだろ」
「おお、なんだその態度は? 気になったから聞いただけなのに、喧嘩売ってんのか?」
喧嘩を売っているのはどっちの方だ。
そんな反抗的な言葉をのみこんで、海藤を睨む。
「おー怖い怖い。……お前、あんま調子乗ってるとまた痛い目にあうぞ」
また、とはこの間『海辺のカフカ』を捨てた時のことを言っているのだろう。あんな目には二度と遭いたくない。けれど、海藤に馬鹿にされるとどうしても感情的になってしまう自分がいた。
「……ほっといてくれよ。どうして海藤はいつもいつも、俺に難癖をつける? 俺が何をした? 何もしてないだろ。それなのに、いちいち突っかかってくんなよ!」
本当は唾でも吐き捨てたい気分だったが、さすがに公共の場で他人に迷惑をかける気にはなれなかった。
「はあ? お前、やんのか?」
璃仁の精一杯の強がりは、海藤からすれば子供の反抗に過ぎないらしい。璃仁の首根っこを掴んだ海藤は柄の悪い不良そのものだ。
海藤が拳を突き上げ、璃仁をロックオンする。その手を振り上げ、璃仁の顔面を殴ろうとしたときだ。
「おい、やめろ」
サラリーマン風の男が海藤の腕を掴んだ。その場にいた数人の乗客が海藤と璃仁を取り囲む。
「ちっ」
男に止められて悔しそうに腕を下ろす海藤。掴まれていた襟首から海藤の手が急に離れたことで、振り落とされた璃仁は地面に転げた。海藤は大人たちの視線に構わず、やって来た電車に乗りこんだ。
「きみ、大丈夫だったか」
男が璃仁に手を伸ばす。
「……はい。ありがとうございます」
「気をつけるんだよ」
高校生にもなって喧嘩で他所様に迷惑をかけるなんて恥ずかしい。璃仁は助けてくれた男の人の顔をろくに見ないまま、ホームから階段を下った。重たい足取りで反対側のホームへと上ると、やってきた電車に乗り込む。何も考えないように電車の中でぼうっと立っていたのに、目に入るのはスマホをいじる人たちばかりで、否が応でもSNS上のアイドル・紫陽花のことを思い起こさせた。