紫陽花はじっと璃仁の顔を見つめたあと、悲しそうに首を横に振った。璃仁が悪いことをしたわけではない、ということだろう。それならどうして、と口を開きかけたところで、紫陽花がそっと呟いた。
「きみは私のことが好きなの?」
混じり気のない漆黒の瞳が、璃仁に問いかけていた。言葉に詰まった璃仁は、瞬きを繰り返す。何も言えない。今好きだと気持ちを伝えたところで、彼女から良い返事はもらえないだろう。そうと分かって想いを伝える勇気はなかった。駅員が「間もなく二番ホームに電車が参ります。ご注意ください」とアナウンスする声が耳を塞いだ。
返事のない璃仁の反応を見て、紫陽花は何かを悟った様子で目を細めた。唇が半開きになる。やがて電車が到着する音がホームに響き渡る。乗客が一斉に電車から降りてくる。もう時間がない。紫陽花は電車に乗って行ってしまう。
「それなら諦めた方がいいよ。きみは本当の私を知ったら幻滅してしまうから」
自嘲気味にぶつけた言葉を、璃仁が受け止める間もなく、彼女は璃仁の腕を振り払い電車に乗った。
「……」
一言も、何も言い返すことができないまま電車の扉は無機質な音を立てて閉まった。紫陽花は電車の中で俯いて、ついぞ璃仁の顔を見ることはなかった。ゆっくりと発車した電車が引き起こした風が璃仁にはおそろしく痛く感じた。ああ、これってさっき駅まで走った時に感じた痛みと同じだ。雨が身体にぶつかるのに痛いはずなんてないのに、心が悲鳴を上げていたんだ。この胸の痛みに効く特効薬は、外でもない紫陽花しか持ち合わせていない。
電車が走り去ったホームにはまたちらほらと次の電車に乗る人たちがやってくる。璃仁が乗る電車は反対側のホームだから、こんなところに立ち尽くしていても仕方がない。だけど、身体が言うことを聞かない。ふと自分の足が震えていることに気がつく。
私のことが好きなの?
諦めた方がいいよ。
本当の私を知ったら幻滅してしまうから。
見透かしたような紫陽花の視線に、璃仁は射竦められてしまった。彼女が去った今でもこの場から動けずにいる。ホームには次の電車の到着を告げるアナウンスが流れる。不自然にホームに突っ立っている璃仁を避けるようにして人波が分かれていく。
「あれえ、田辺。そんなところでぼうっとしてたらホームに落っこちるぞ。てか、落ちれば良かったのに」
残酷な響きに左耳が反応し、ようやく身体を捻る。予想通り、そこに立っていた海藤が道化のような笑みを浮かべている。
「……なんだよ」
ささくれた心を剥き出しにして海藤にぶつける。今一番会いたくなかった人物だ。固まっていた身体が嘘のように動いて海藤に背を向ける。だが、海藤の方が上手だった。「おっと」と言って俯く璃仁の前に立ちはだかる。体格の良い海藤の横をすり抜けることもできず、オオカミに見つかったヤギのように身体が縮んだ。海藤を前にすると、強がっていてもやはり反射的に身体がすくんでしまう。
「お前、さっき女と話してたよな。しかも東雲高校の。よく見えなかったんだけどさ、あれってもしかして彼女?」