「あんた、何そんな暗い顔してんのよ」
放心状態のまま帰宅すると、珍しく母が先に帰っていた。「今日はちょっと休憩日」と言って二つ目のパートを休んだらしい。
「いつもこんな顔だよ」
「嘘つけー。だっていつも笑顔でいることが私の教えでしょ〜ちゃんと守りなさいよ」
思春期の息子に「いつも笑顔で」だなんて小さな子供を説得させるようなことをまだ言っている母親は、鈍感すぎてむしろかわいそうなくらいだ。自分の教えのせいで、息子が学校でいじめられていたなんて思ってもいないのだろう。これからも言うつもりはない。
「この歳になると、いろいろあるんだよ」
母親と張り合うのは性に合わないので、璃仁は適当に話を流そうとした。しかし、母はいつになく興味津々という表情でにやりと口の端を上げた。
「ほうほう。いろいろって、例えば女の子とか?」
しまった。
母はそういう話が好きだってことを忘れていた。
心の中で「あちゃー」と自分の失態を嘆く璃仁だったが、何事もないかのように真顔で答えた。
「まあ、そんなところ」
「ひゅーひゅー」
昭和生まれ感満載の冷やかしをしてくる母に呆れつつ、「もういい?」と二階に上がろうとした。
「えーちょっと待ってよ。もうちょい聞かせなさい」
「話すことなんかないよ」
「まあまあそう言わずに。ほら、璃仁の好きな蒸しパン作ったし」
そう言われると確かに、ほんのりと甘い香りがする。昔から母はおやつによく蒸しパンを作ってくれていた。簡単にできて、かさも多い。節約家庭ではよく見られる光景かもしれない。最近ではめっきり見なくなった蒸しパンだったが、久しぶりに蒸しパンの味を想像するとお腹が鳴った。
母が蒸しパンをお皿に並べ、お茶を入れてくれた。本能に負けた璃仁は食卓につく。テーブルの上に置かれた蒸しパンにはサツマイモとレーズンが入っていた。一口齧るとほくほくしたお芋と酸味のあるレーズンの味がマッチして、懐かしい味だった。
「おいしいでしょ」
「うん」
「蒸しパンだけは他の主婦には負けない自信があるからね」
「蒸しパン作ってる主婦、あんまりいないんじゃない?」
「いやいやそんなことないよ。えりちゃんママだってたくみくんママだって作ってたじゃない」
ずいぶんと昔の友達の名前を出してきた母親に、璃仁は吹き出しそうになった。幼稚園時代の友人なんてもう全然交流がないのに、母の中では現在進行形で友達のように語られていた。
「まあなんでもいいけど。俺、学校の課題やんなきゃ」
「課題〜? そんなものより親と話す方が大事でしょ」
マジですか。
母親にそんなことを言われるとは思ってもいなかった璃仁は、とうとう何も言い返すことができなかった。
「それでさあ、女の子のことで悩んでるの?」
阿呆らしく見えてしっかりと図星をついてくる母が小憎らしい。
「悩んでるっていうか……いや、別に悩んでない」
「そういうのを悩んでるっていうのよお。相手は誰? 同級生? えりちゃん?」
「えりちゃんは全然関係ないってば」
思わず答えると、母がまたにやにやといたずらっ子の笑みを浮かべた。ああ、やってしまった。これではもう母の思う壺じゃな
いか。
「ふふ、璃仁もそういうお年頃なのね。それで、どこまで関係が深いの? 片想い? あ、もしかしてもう付き合ってる?」
母親の前で女の子と付き合うとか、片想いしてるだとか、口が裂けても言いたくなかった。でも、母親の鋭い眼光に押され、気がつけば胸のうちを訥々と話してしまっていた。