しばらく話して諦めたのか、ちぃ先輩は一人ポニーテールを揺らしながら教室の外に出て来た。
「少年。えっと、田辺くん、だっけ?」
「は、はい」
「なんかねえ、会いたくないんだって」
「え?」
まったくオブラートに包むということをせずに、ちぃ先輩は紫陽花の伝言を直球で伝えて来た。こめかみに人差し指を当てて、さも難儀そうな様子だ。
「会いたくないって……どういうことでしょう」
「さあ、私にもよく分からないんだけどね。きみの名前を出したら『今日は会いたくないって伝えて』って言われて」
「はあ……」
どういうことだろう。確かに、人と会いたくないと思う日はある。例えば海藤に難癖をつけられて気分が落ち込んでいる時とか単純に体調が悪い日とか。でも、遠くから見る限り紫陽花は友達と楽しそうに話しているし、気分が落ち込んでいる感じではない。もちろん、璃仁が知らないだけで実際は何か抱えているのかもしれないけれど。
「せっかく来てくれたのにごめんね。でも私にはこれ以上何もできなくて。いろいろ聞いてみたんだけど、何も教えてくれないのよ」
「……そうですか」
紫陽花が璃仁のことを友達に教えない理由については、なんとなく察しがついた。璃仁自身、クラスメイトには先輩の女子と仲が良いということを知られたくない。だからこれ以上、ちぃ先輩に面倒をかけるわけにはいかなかった。
「すみません、ありがとうございました」
「いえいえ。何もできなくてごめんね。きみ、紫陽花のこと好きなの?」
「え!? あ、はい……。でも、まだ全然紫陽花先輩のこと分かってなくて」
突然告白させられたことに戸惑ったが、この先輩とはそこまで距離が近くないので、むしろ本心を打ち明けることができた。
「そっか。頑張ってね。紫陽花、すっごい人気ですっごい分かりにくいから。これまでも何人もの男が陥落していったわ」
分かりにくい。確かにそうなのかもしれない。
紫陽花は基本的に自分のことを話さない。憧れや幻想だけで近づいていく男たちが次々と失敗していったのはなんとなく頷ける。
自分はそうでない、と思いたい。いや大丈夫だ。だって、昨日だって紫陽花は大切な昔の思い出話を聞かせてくれたんだから。
「まあきみなら、もしかしたら、ね」
応援してるよ、と手を振ってちぃ先輩は教室へと戻っていった。
結局、紫陽花がなぜ出て来てくれなかったのかは分からない。昨日のデートで何か気づかないうちに失敗してしまったんだろうか。
意気消沈したまま2年生の教室へと戻る。そんなはずはないのに、後ろから紫陽花の視線を感じて振り返ったが、もちろん誰も璃仁のことを見ていなかった。
教室に着くと机の中に入れておいた英語の教科書がなくなっていた。5時間目の授業で使うものだ。必死に辺りを見回すと海藤がにやにやとこちらを見ており、胸に暗い影が落ちた。でも、彼から教科書を奪い返す気力はなかった。英語の先生が来て、素直に「教科書を失くしました」と告白する璃仁を見て、海藤が「チッ」と舌を鳴らす音が聞こえて来た。先生は困った顔をしたが、黙って教科書をコピーして持って来てくれ、事なきを得た。授業後に先生から「もう一度よく教室や自宅を探してほしい。それでもなければ購入してもらうことになる」と注意を受け、璃仁はただ頷くことしかできなかった。もし購入することになれば、両親に迷惑をかけてしまう。海藤のせいとはいえ、無駄な出費をさせてしまうのがいたたまれなく、買うなら自分のお小遣いで買おうと胸に誓った。
海藤は璃仁が何も言ってこないことが面白くないのか、放課後に璃仁の方へ教科書を投げつけてきた。
「馬鹿やろう」
璃仁が馬鹿なら、海藤はいったいなんなのだろう。
言い返すこともせず、罵倒と共に戻って来た教科書をただ鞄の中にしまう。これでお小遣いを使わずに済むと思うとほっとした。周囲にも分かるくらい、璃仁の心は荒んでいた。紫陽花から会うことを拒まれたというだけで、これほどまでに自分の気分が浮き沈みすることが信じられない思いだった。
紫陽花と話がしたい。
昨日のデートと本のお礼を伝えたいし、新たなデートの約束だってしたかった。もちろん、またデートに応じてくれる保証はないけれど、誘わずに拒絶されるよりはマシだった。
心にもやがかかったままその日、家に帰宅した。また日にちを開けて紫陽花を誘ってみよう。今日は連絡するのも憚られるので、スマホをベッドの上に放り出して何も考えずにベッドに寝そべった。自分以外、誰もいない家の静けさに、心が折れそうになる。普段はこんなことないのに。自分は今、彼女に玉砕した多くの男たちと同じ道を辿っているのかもしれない。自分だけが特別だと思っていた過去の自分を殴りたい。
「本当、馬鹿やろうだな」
まったく海藤の言う通りかもしれない。
部屋の明かりを消して、静かに目を閉じる。今日はお腹も空かない。心と身体がこれほどまでに連動していることを、この日初めて思い知った。