朝、遮光カーテンに遮られた璃仁の部屋は何時になっても薄暗い。暗くないと眠れない璃仁が母親に無理言って買ってもらったものだ。普通のカーテンより値が張るのでかなりしぶっていた母親も、璃仁が睡眠の質にこだわっていると何度も訴えてようやく頷いてくれたのだ。
だがそのせいか、朝起きられないこともしばしばだった。今日も時計を見てぎょっとする。時刻は午前8時。8時45分に始業なので、急いで準備しなければ間に合わない。
両親とも仕事が朝早く、璃仁よりも先に家を出ていた。連休明け、ぼうっとする身体を叩き起こし、朝ごはんも食べないまま家を飛び出した。
「そうだ、紫陽花先輩」
昨日のお礼をしなくちゃ、と電車でスマホを取り出したのだが、やっぱり直接会って伝えようとスマホをポケットにしまう。今日は図書室にいるだろうか。彼女の当番がいつかは知らないが、図書室に行けば紫陽花に会えるような気がした。
「崎川先輩ですか? 今日は当番じゃないです」
昼休みに図書室に行くと紫陽花はいなかった。代わりに当番をしていた1年生の男の子が、当番表を見せてくれた。
それによると、紫陽花の当番は来週の月曜日らしい。それまで会うのを我慢するかと悩んだが、璃仁だって思春期真っ只中の少年だ。好きな人に会うのに1週間も待てるはずがない。
「ありがとう」
親切な1年生にお礼だけ伝えて、図書室を出ようとした。
「あ、待ってください」
だが、どういうわけか彼は璃仁のことを呼び止める。その手には一冊の文庫本が握られていた。
「これ、崎川先輩が蔵書にしてほしいって言ってきたんです。それと、もし2年生の男子で自分を訪ねてくる人がいたら渡して欲しいって。彼、多分途中までしかこの本を読んでいないからって言ってました」
「え?」
璃仁は少年の手に握られた一冊の本に視線を落とす。
タイトルは『海辺のカフカ』。璃仁が海藤に窓から投げ捨てられた本だ。
「なんで?」
思わず口から疑問が漏れた。1年生の図書委員が首を捻る。彼は紫陽花からこの本を2年生の男子に渡して欲しいとしか伝えていないのだろう。細かい事情は知らない様子だった。
「分かった。ありがとう」
とにかく図書委員から本を受け取ると、彼はほっとした様子で胸を撫で下ろした。知らない先輩に声をかけるのに勇気がいったんだろう。威圧的な雰囲気を出しているつもりはないが、彼の気持ちは分かる気がした。
璃仁は『海辺のカフカ』を持って図書室をあとにする。
頭の中では疑問が渦を巻き、足は自然と3年生の教室の方へと向かっていた。
いったいなぜ、紫陽花は1年生の図書委員にこの本を託したんだろう。璃仁に渡すためならば、自分で直接渡した方が確実で他人の手を煩わせることもない。璃仁だったら絶対にそうする。この本一冊で紫陽花に会う口実にもなるのだし。
3年生の教室の廊下は、やっぱりどこか居心地が悪かった。すれ違う先輩たちが璃仁のことを睨んでいるような錯覚に陥る。3年1組の教室に行くと、紫陽花を見つけるより先に例のポニーテールの先輩が「あっ」と璃仁の姿を認めて近寄って来た。確か、紫陽花は「ちぃ」と読んでいた。名前は知らないが、ちぃ先輩は相当世話焼きなのか、璃仁に「少年どうしたの?」とおかしそうに聞いた。
「こんにちは。あの、紫陽花先輩は……」
「あ、また紫陽花? ちょっと待ってね」
今日は教室の中にいるらしく、ほっとしながら紫陽花が出てくるのを待った。しかし、いくら待っても紫陽花は出てこない。そっと教室の中を覗くと、窓際の席に座る紫陽花の後ろ姿が見えた。ちぃ先輩と何か話し込んでいる。ちぃ先輩の困ったような横顔が遠くからでもよく分かった。