触れたいのに触れられない彼女に向かって、代わりに璃仁は「あの」と口を開いた。
「何か悩んでることがあるんだったら、俺に相談してくださいっ。いや、その、俺じゃ何も役に立たないのは分かってます……でも俺、この間本がびしょ濡れになってショックだった時に紫陽花先輩に助けてもらったのがすごい嬉しくて。だから同じように、紫陽花先輩が傷つくようなことがあれば、俺は力になりたいんです。お願いします」
お願いします、と璃仁が頭を下げるのは変だと思いつつ、そうせずにはいられなかった。
目の前で紫陽花の息をのむ音が聞こえる。
どこからかふわりと漂う甘い香りが、熟したての桃の果実を思わせる。だけど違った。香りは、紫陽花の身体から漂ってくる。紫陽花の後ろから吹く風にのって、その匂いはとてつもなく甘い感情を璃仁の胸に植え付けた。
「わたし……」
紫陽花が我を忘れたような瞳で璃仁をじっと見つめる。くるりと黒目が一回転したかと思うと、何度も瞬きを繰り返した。まるで泣くのを我慢している小さな子供のようで、
泣いてしまえ、と思った。
事情は分からないが、紫陽花の胸の中に泣きたいほどの悩みが巣食っているのなら、いっそここで全部吐き出してしまえと願う。
けれど紫陽花は大人だった。何度か瞬きをしたあと鼻を啜ると、ふいと璃仁から顔を逸らしたのだ。たぶん、目の前で泣いてしまうのが恥ずかしかったんだろう。
「なに、言ってるの」
感情の出力を間違ってしまったかのように、紫陽花がケタケタと笑いだす。璃仁はそのノリについていけず「はあ」と間の抜けた声が出てしまった。
「悩みなんてないよ。てか、あるとしても私は大丈夫」
「そうですか」
ショックでなかったと言えば嘘になる。紫陽花の思い出の場所まで一緒に来て、少しは心を開いてくれたのかと思っていたから。
だけど、紫陽花にとって璃仁はまだ悩みを打ち明けるに足る存在ではないのだ。その事実を突きつけられて胸が軋んだ。