「田辺くんはさ、どういうときに幸せだって感じる?」
唐突に投げかけられた質問。紫陽花の真意が掴めないまま、璃仁は「そうですね」と考え始めた。
「おいしいものを食べたときとか」
「うん」
「綺麗な景色を見たときとか」
「うん」
「休日に思いっきり寝られるときとか」
「うん」
「あとは、好きな人と一緒にいられるとき……とか」
チラリと横目で紫陽花の方を見た。紫陽花は目を瞬かせる。璃仁の言う「好きな人」がまさか自分だとは思っていないだろうが、この状況に、お互いのことを意識せざるを得なかったんだろう。
「好きな人……田辺くんは、いるの?」
どうしてか、懇願するような声色で紫陽花が聞いた。紫陽花にとって恋愛が何か特別な意味を持つのかもしれないというのは薄々気づいていた。初めて声をかけた日も、璃仁が告白をしてこないかと警戒していた。過去に何かあったんだろうけれど、いきなりあの質問が出るということは、それなりに経験を積んでいるに違いなかった。
「……いますよ、好きな人」
少し迷ってから答えた。目の前を知らない鳥が通り過ぎていった。その勢いに乗せられて口が滑ってしまったような心地がした。
「そう」
紫陽花は、それは誰なのかとは聞いて来なかった。聞いたところで自分には関係がないし、誰のことかも分からないと思ったのだろう。璃仁は少し残念に思いつつ、それでもほっとしていた。今紫陽花に告白するなんて心の準備ができてなさすぎる。もう少し彼女とは仲を深めたいと思っていた。
「紫陽花先輩はどういうときに幸せって感じるんですか」
今度は璃仁の番だった。普段自分のことを語らない紫陽花が、今日は珍しく自己開示しようとしている。このチャンスをみすみす逃すわけにはいかない。
「分からないの」
「え?」
「分からないから、田辺くんに聞いた。変かな」
「変じゃない……と思いますけど」
「良かった。でも、幸せがなにかっていうのははっきりしてるよ」
「へえ。何ですか?」
何だか禅問答のようになってきたな、とおかしく思いながら好奇心で尋ねてみた。
すると紫陽花は遠くの海の、水平線の方を見て目を細め、今度は璃仁の目をまっすぐに見つめて言った。
「溺れて息ができなくなること」
その完璧なまでの整った顔立ちと消えてしまいそうな儚い笑みが浮かんだ表情が、璃仁の胸に深く刻み込まれた。
「溺れて……」
比喩だということはすぐに分かった。でも、「幸せ」というどこか温かさの漂う言葉と「溺れて息ができない」という物騒なワードがどうしても頭の中で結びつかず、璃仁は首を捻った。まるで磁石のS極とN極のように、二つの言葉は相容れない。紫陽花はどういうつもりでそんなことを口にしたのか。
知りたい。
璃仁の、紫陽花に対する知りたいという欲求がいま、これまでにないくらいに膨らんでいた。
身体ごと紫陽花の方に向けると、彼女は「どうしたの」と当然の疑問を口にした。璃仁は何も言わず、紫陽花の肩に触れようとする。でも、ダメだ。どうしてもできない。まだ紫陽花の身体に触れていい資格なんてない。下手すれば変態だ。変態、と頭の中で反芻するとだいぶダメージを受けた。