「今日って、何かしたいこととかありますか?」
「散歩」
迷いのない言葉に、璃仁は思わず「散歩」とオウム返ししてしまう。
「そう。ダメ?」
「い、いいいいです! しましょう、散歩!」
「良かった。じゃあこっちに行こう」
くるりと振り返って紫陽花が歩き出す。スカートの裾がふわりと舞うのを見て、璃仁は紫陽花の後を追った。
「ここ、先輩は来たことがあるんですか?」
「うん。小さい頃に、何度かね」
「ふーん」
こんな(と言っては失礼だが)田舎町に、紫陽花がどうして来たがっていたのか謎だ。紫陽花は時折首を左右に動かして何かを探し求めるかのように周りの風景を観察している様子だった。璃仁も彼女と同じように町並みを見ながら歩いていると、この町にはある特徴があった。田舎によくあるチェーン店に並んで、桃の直売所や加工品の店が度々現れたのだ。ああ、だから駅前であんなに桃の匂いがしたのだ。今も辺りを漂う甘い香りは、璃仁の緊張をほどよく溶かしてくれていた。
「ここ、桃がよく獲れるんですね」
「そうだよ。だからいつも桃の時期になるとお母さんと一緒に来てた」
紫陽花の口から身内の話が出てきて、璃仁は「おっ」と心の中で声を漏らす。これまであまり自分の話をしてこなかった紫陽花が、初めてそういう話を自らしてきたのだ。
「お母さんって、どんな人なんですか?」
璃仁の問いに、紫陽花はしばらく「うーん」と首を捻っていた。やがて、答えが見つかったのか「お母さんは」と切り出した。
「どうしようもない人だよ。本当に、娘の私から見ても救いようがないくらい」
紫陽花の瞳が憂いで濁っていた。いつもSNSの投稿写真で見ているキラキラと眩しいほどに光っている瞳とも、先日、大事な本を投げ捨てられて絶望に打ちひしがれる璃仁を心配そうに見つめていた瞳とも全然違った色をしていた。
「自分のお母さんのこと、変わった言いた方するんですね」
「だってそれしか言いようがないだもん」
「そうですか。まあ、うちの母親も同じかもしれません」
「そうなの?」
「はい。だってすっごいケチなんですよ」
「はは、そんなの全然普通じゃん」
「いや、度を越したケチです。人類稀に見る貴重なケチ人種です」
「きみ、自分のお母さんのこと悪く言い過ぎだって」
「先輩には及びません」
璃仁たちはお互いの顔を見て吹き出して腹を抱えた。気づいたらケチ、ケチと母親のことを罵っている自分があほらしく思えてきた。
「でもさ、本当にそれぐらいなら大したことないよ。私のお母さんは、ちょっとネジが外れてるの。昔は、そんなことなかったんだけどね」
紫陽花は田舎の風景を見ながら、昔を懐かしむように目を細めた。母親との思い出がそこかしこに散らばっているのかもしれない。時折スマホで田舎の風景を写真に納めていた。SNSに投稿するのだろうかと予想したが、「これ、アップしないよ。後輩くんとデートなうなんて書いたらスキャンダルになっちゃう」と璃仁の思考を見透かしたかのように言われた。それにしても大袈裟な物言いだ。第一、そんなキャプションは書かなければいい——じゃなくて、自分が誰かとデートをしていることがバレてスキャンダルになるなんてどれだけ有名人気取りなんだこの人は。あ、でも有名人なのか。フォロワー10数万人。改めて、そんな人気者で超絶美人の先輩とデートをしているという現実に、喜びに包まれた。