5月7日、日曜日。
GW最後の一日が始まった。朝、カーテンを開けて日の光を浴びた瞬間から、璃仁の頭は冴え渡っていた。一階に降りて洗面所の前に立つと、前髪がボサボサと立っている。このまま出かけるのはまずい。洗面台の棚から父親の使いかけのワックスを取り出して勝手に拝借する。慣れないワックスに、否が応でも今日のデートに対する緊張が膨らんでいく。あまり考えないようにしていたのに、これでは意味がない。
「あれ璃仁、今日はどこかへ行くの?」
「う、うん。ちょっと友達とゲームセンターに……」
窓辺で洗濯物を干していた母親が、ワックスを塗りたくられた璃仁の髪の毛を見ていた。
「そうなの? 今日は母さんたちも休もうと思ってたんだけど」
「そうなんだ。でもごめん、前から約束してたんだ」
「いいわよ。友達でしょ。行ってらっしゃい」
母はきっと、たまの休みに璃仁とどこかへ出かけようと思っていたのだろう。ちょっと申し訳ないという気持ちにはなったが、今日は璃仁にとって大切な日なのだ。それに、母も「友達と」と聞いて嬉しそうだったので、まあ今度埋め合わせでもすれば大丈夫か。
璃仁はソファで「GWのレジャーに最適!」と見出しのついた地域情報誌を見ている父親を尻目に、玄関から飛び出した。
最寄り駅で学校とは反対方向へと進む電車に乗り、目的地まで電車に揺られていた。
昨日、紫陽花に行きたい場所を聞くと、紫陽花が候補に上げたのは、とある小さな町の名前だった。その町はマップで見る限り民家やスーパー、ちょっとしたご飯屋さんが立ち並ぶ住宅街で、駅から少し離れると畑や田んぼなんかもちらほら見受けられる。最初に聞いたときは拍子抜けした。「え、そんなところでいいんですか? もっと他に……例えば動物園とか水族館とか、ショッピングとかあるじゃないですか」と返したが、紫陽花は「ここがいい」と頑なに譲らなかった。
正直、がっかりしなかったと言えば嘘になる。だが、デートをしてくれるだけで、璃仁は贅沢だと自分に言い聞かせ、待ち合わせ場所まで向かった。
電車で揺られること1時間、待ち合わせの駅である「桃畑」に降り立つと、鼻腔をくすぐる桃の香りにほんのりと癒される。その名の通り、この町には桃畑があるらしい。それにしても、パッと見た限り視界に畑は見えないのにここまで香りがくるものなのか。ん、でも桃って夏に獲れるんじゃなかったっけ……と思考を巡らすうちに、改札から紫陽花がやって来た。利用者が少ない駅なのですぐに彼女だと分かる。
「こんにちは」
「やっほー」
紫陽花は、白いブラウスに花柄のスカートというお嬢さんらしい格好で登場した。初めて彼女の私服を見て、ゴクリと生唾を飲み込む。写真では私服姿の彼女をよく見ていたが、生で見るのとは全然違っていた。スカートの裾から伸びる白い足、白いブラウスの色が反射して余計に白く見える首元、桃色のネイルや毛先を巻いた髪。紫陽花のすべてが、璃仁には尊くまぶしすぎて、直視することができなかった。
「あれ、どうしたの?」
「い、いえ、なんでもありません!」
「えー? でも様子が変だよ」
「俺が変なのはいつも通りです。紫陽花先輩だって、この間言ってたじゃないですか」
「まあね。確かにきみは、いつも変」
「そうです」
この時ばかりは「変」という言葉で片づけられて良かったと内心ほっとしていた。高3にして色気の漂う彼女を目の前にしていると、璃仁は手汗が止まらなかった。