自宅へ帰り着くと、脱いだ靴もそのままに二階の自分の部屋へさっさと上がる。両親はまだ帰ってきていない。二人とも夜は遅いので、母親が毎日作り置きの夕飯を作ってくれていた。

 制服から部屋着へと着替え終わると、逸る気持ちを抑えてスマホを手に取った。実は、電車に乗った時からすでに高揚感が止まらなかったのだ。理由は言うまでもない。湿気のこもった部屋の窓を開けることさえ忘れて、璃仁は先ほど交換した紫陽花の連絡先を眺めていた。

 せっかく連絡先を手に入れたのだから、何か送りたい。二度、三度、部屋の中を行ったり来たりしながら何を送ろうかと考えた末、結局クマのスタンプを送った。茶色いクマが、「こんにちは!」と挨拶をしているごくありふれたスタンプだ。これならいきなり送られてきても悪い気はしないだろう。

 ふと、女の子と連絡をとるのはいつぶりだろうと振り返る。記憶にある限りではゼロに近い。いや、正真正銘のゼロだ。あの人気者の紫陽花が記念すべきその一人目になったということが、自分でも信じられない思いだ。
 紫陽花からの返信を待つ間、英語の勉強をしようとペンを握ったものの、まったく手につかない。頭の大部分を占めている淡い青春の歓喜が、全身から弾けてしまいそうで落ち着かなかった。そんな状態で英訳の問題なんて解けるはずもなく、一人称の「I」を書いただけでその先のノートはまっさらのままだ。

 返信は、璃仁がスタンプを送信してから二時間後に来た。確かに紫陽花が言う通り返信のペースはのんびりではあるが、遅すぎるというほどでもない。机の上の一番見やすい位置に置いていたスマホから通知音が鳴ったとき、璃仁の心臓は飛び上がりそうなほど跳ねた。実際、椅子から身体が少し浮いた。これが教室だったら誰かに見られていただろう。想像するだけで恥ずかしい。

 紫陽花から送られてきたのは、璃仁と同じくスタンプのみだった。制服を着たアニメキャラクターのような女の子が、「やっほー」と手を振っている。こういうイラストが好きなのか、と彼女の新たな一面が見えて感激した。
 たった一つスタンプが送られてきただけで感情がジェットコースターのようだ。璃仁は少し間を置いてから、「今日はありがとうございました」と送った。

 返信はすぐに来た。思ったよりも素早い返事に胸が高鳴る。なんだ、返信遅くないじゃん。てか、もしかして相手が自分だから——などと都合の良い妄想にふけるくらいには、本の事件の傷はすっかり癒えていた。

18:26『別に、何もしてないよ』

18:28「いえ、俺にとっては救世主でした」

18:31『これくらいで救世主なら、世界は平和すぎるって』

 紫陽花とのラリーは面白いくらいテンポが良く続いて、本当に目を疑った。返信が来た時のピコンという通知音が、璃仁の胸をいちいち熱くする。本を読んだり映画を見たりしている時には得られない幸福感だ。胸の奥の奥の方がドキドキと踊るように跳ねる。今の自分の気持ちを可視化できるのなら、きっとピンク色に染まっていることだろう。

 紫陽花とどうでもいい会話を小一時間ほど続けたところで、「じゃあ私、今からご飯だから」という連絡が来て返信が途絶えた。名残惜しい気持ちで「Good Bye」のスタンプを送る。あまり長くやりとりをしすぎてもしつこいやつだと思われるので、彼女がやめたいタイミングでこちらも引くのが鉄則だろう。

 自分でも気づかないうちに、紫陽花の気持ちを自分に傾けさせるにはどうしたら良いかというふうに思考が回っていた。もちろん、紫陽花のことは気に入っている。だけどまだ、じゃあ好きなのかと聞かれたらよく分からない。気になっている、というのが正しい表現だろう。