急いで荷物をまとめ校舎から飛び出した璃仁は、2年4組の教室の真下にあたる場所まで走る。生憎傘を持って来ていなくて、すぐに全身がずぶ濡れになった。
 けれど、そんなことは気にならないほど、今は投げ出された本を探すのに必死だった。璃仁は先ほど教室から見下ろした辺りの場所を見渡して、すぐにそれを見つけた。

「うわ……」

 手に取った本は村上春樹の『海辺のカフカ』だ。ブックカバーに包まれているけれど、この雨で一気に水浸しになっていた。紙は水に弱い。そんな当たり前の事実を今実感する。恐る恐るページを開いてみると、インクの滲んだページが二枚、三枚、とくっついていた。完全に壊れていた。  

 璃仁にとって、本は友達とも呼べる存在だった。一人きりで想像の世界に羽ばたかせてくれる夢のある書物。現実世界でどれだけ嫌なことがあっても、本を開けば主人公と一体化し、別の人生を体験することができる。時には悲しい結末を迎えることもあるけれど、それもまた一興だった。本は璃仁を決して裏切らない。璃仁の服装や見た目を揶揄うことも、汚いと笑うこともない。SNSのように誰かの人生を羨む必要もない。だってこれは想像なのだから、いくらでも誰かの人生に憑依できるのだ。
 そんなふうに大切にしてきた本が、今璃仁の目の前で容赦なく壊れていた。

「嘘だ」

 生まれて初めて、大切な友達を傷つけられた時のような絶望感に襲われた。
 自分が傷つけられるのではなくとも、本が傷つくことで、璃仁の心は砕けた。
 なすすべもなくその場に立ち尽くしていた。冷たい雨がどんどん激しさを増し、璃仁の頬を、腕を、足を、容赦なく打ち付ける。けれどそれよりも手に持った『海辺のカフカ』が本としての命を削っていくのを見て、自然と涙がこぼれてきた。その涙も、雨に流される。誰にも涙を見られないように俯くと、地面がひたひたに沈んでいく様が目に映った。まるで写真を見ているようだ。SNSで映える写真。雨の日に傘も持たずに大切なものを壊され、絶望に打ちひしがれる俺カッケー。SNSに投稿なんてしたこともないのに、キャプションが頭に浮かんだ。けれど、こんな投稿では誰も「幸せテロ」だなんて思わないだろう。

「……田辺くん?」

 そっと誰かに名前を呼ばれ、璃仁は身体中に打ち付ける雨の感触がなくなったのを感じた。
 雨水で浸される地面に、丸い影がぼんやりと浮かび上がっているのを見た。ゆっくりと顔をあげると、白地に黒い水玉模様の傘をさした紫陽花が、心配そうな表情で璃仁の顔を覗き込んでいた。

「どうして」

 嬉しい、という気持ちより先に、紫陽花がここにいることに対して疑問が湧き上がった。二週間会えなかった彼女に、みっともないところを見られて恥ずかしいとさえ思った。

「今帰ろうとしていたところ。傘もささずにきみがこんなところに佇んでいたからどうしたんだろうって思って」

 紫陽花は当然の疑問を抱きながら璃仁の元にやって来たようだ。やがて璃仁の手の中にある本に、焦点が合わさる。

「それ、どうしたの」

 クラスメイトに窓から投げ落とされたなんて告白するのはあまりにも恥ずかしすぎた。同級生に揶揄われているところなど、女の子に知られたくはない。まして気になっている女性ならなおさら。

「ちょっと、手が滑って落としちゃったんですよ」

 璃仁は紫陽花に泣いていたことを悟らせないように、しっかりと目を開いて校舎の教室の方を指さした。たぶん、目が充血している。真正面を見れば、涙を流していたことぐらいすぐに分かってしまうだろう。

「そうなの? めちゃくちゃ不注意じゃん。ふつうそんなもの窓から落とさないって」

「ですよね」

「うん。きみ変わってるよ」

「よく言われます」

 璃仁の言葉を信じたのか、紫陽花は「災難だったねー」と軽い口調で話した。そのことになぜかほっとする璃仁。けれど次の瞬間、紫陽花は璃仁の背中にぽんと手を添えて迷子の子猫をなだめるような口調で言った。

「大事なものなんでしょ。水浸しになって、かわいそう」

 吐息を漏らすような彼女の声が、璃仁の胸にストンと入ってきた。
 別に、本を投げ捨てられたことを誰かに同情して欲しかったわけではない。むしろ格好悪いから誰にも知られたくなかった。けれど、璃仁の気持ちを案じて寄り添ってくれる紫陽花の言葉は、璃仁の胸に切なく響いた。

「……すみません」

「なんで謝るの? それ、悪い癖だって」

 紫陽花は呆れたようにため息をついた。でも、心では璃仁のことを心配している。そんな胸のうちが伝わってきて、璃仁は泣きそうになった。

「大切なものを守れないなんて、格好悪いですよね」

 本に対して「守る」だなんて大袈裟な言い方で笑われるかもしれない。璃仁はそっと紫陽花の顔色を窺いながら呟いた。

「そんなことないよ。守れないことだって、ある」

 紫陽花は驚くほどすぐに璃仁の心配を否定してくれた。しかし紫陽花は璃仁の目を見ていなかった。何かを噛み締めるように、自分に言い聞かせるように肯定した。

「先輩も、大切なものを守れなかった経験があるんですか?」

「……うん。あるよ」

 雨の音でかき消されそうなか細い声だった。璃仁は、なんとなくその先を聞いてはいけないような気がして押し黙る。雨雫が、傘からはみ出た紫陽花の肩で万華鏡のように形を変える。その雫の姿を目で追っていると、紫陽花が璃仁の方へ視線を向けた。彼女のまなざしに気づいた璃仁が、雫から目を離す。紫陽花は真剣な表情で、璃仁に何かを訴えかけているような瞳をしていた。

「紫陽花先輩は、好きな人がいるんですか?」

 彼女は璃仁の問いかけに、肩を揺らし瞳を瞬かせた。

「いないよ」

 はっきりとした答えだった。けれど、紫陽花のその言葉通りに受け取るべきなのか璃仁には分からなかった。紫陽花の心は、口先から出る言葉ではなく、もっと胸の奥の方の、限られた人間しか触れることのできない遠い場所にあるような気がした。璃仁にはまだ、紫陽花の胸のうちに触れる資格はない。

「そうですか」

 今はただ、頷くことしかできない。この女性(ひと)のことを、本当に知りたいと思うなら。SNSであれほどの人気を博し、透明な幸福に包まれた写真を投稿する彼女のことを理解したいと思うなら。
 降り頻る雨の中、璃仁は彼女の肩越しに見える傘の淵から滴る雨水を、何度も目で追っていた。