その日、璃仁の頭の中では今朝の登校中の出来事が何度も再生されていた。
 久しぶりに紫陽花の姿を見つけた時の胸の高鳴り。紫陽花に話しかける男が現れた時の落胆。その男の正体が海藤だと分かった時の衝撃。短時間のうちに璃仁の感情は二転三転し、今や整理がつけられない。数学の時間も英語の時間も、心ここにあらずの状態で先生に何度か注意されかけた。

 しかし璃仁以上に注意を受けていたのが海藤だ。彼はどの授業時間中もふてくされた態度で頬杖をつき、窓の方を眺めたりノートに落書きしたりしていた。案の定先生たちから大目玉を喰らい、5時間目の今、ようやく真面目に授業を受ける気になったようだ。

 璃仁はこの日の昼休み、再び図書室に赴いたが紫陽花はいなかった。今朝の出来事について、紫陽花に聞かないまでも本人から何かしら相談のようなかたちで情報を得られないかと期待したのだ。でも、そもそも会うこともできないのであればまったく無意味な目論見だった。

 結局紫陽花とは会えないまま、放課後を迎えた。4月の始めに紫陽花と秘密の場所で話をしたのがすでに懐かしい。連絡先を持っていない紫陽花と会える機会が、もしかしたらもう二度とやってこないかもしれない——と、どこまでもネガティブ思考に陥っていた。

 璃仁は憂鬱な気分で教科書と、それから休み時間に読んでいた文庫本を通学鞄にしまっていた。クラスメイトたちはそれぞれ所属する部活動に行く準備をしている。教室から去っていく人たちを尻目に、最後に文庫本をしまおうと手に取った。

「ほれ飯塚」

 軽快な合図とともに、誰かが璃仁の手の中から文庫本を奪い取る。

「ナイスキャッチ! はい太田!」

「おけー。海藤」

「うっしゃ。じゃあな」

「あっ」

 璃仁の視界を飛び交っていた文庫本が、最後に手にした海藤により窓の外へと投げ出される。時間差で、ボス、という微かな音が聞こえた。璃仁は慌てて窓際へと駆け寄った。何の因果かポツポツと雨が降り出していた。

「……何すんだよ」

 これまで海藤の嫌味には散々耐えてきたつもりだったが、今回ばかりは腹の底が煮えくり返っていた。激しく脈打つ心臓が、ドロドロに熱せられた血液を送り出し、全身を燃え上がらせる。明らかにいつもとは違う憤怒を見ても、海藤はへらへらと嫌な笑みを湛えている。

「お前の大切なものを、捨てた」

 悪びれもなく答える海藤に、身がはちきれそうなほどの怒りがこみ上げる。

「何でそんなことすんだって言ってんだよ」

 璃仁はいつになく反抗していた。自分のことを貧乏だとか馬鹿なやつだとか言われるのはまだ耐えられる。でも、大事なものを粗末に扱われるのは我慢がならない。物に罪はない。それなのに、海藤は簡単に璃仁の大切な本をとりあげ、あまつさえ窓から投げ捨てた。璃仁がどれだけ心を痛めたか、目の前で目の端を吊り上げている彼には到底分かるまい。

 普段抵抗しない分、言い返してきた璃仁のことが愉快でたまらないのか、海藤は取り巻きたちと目で合図を送りながら、この場の状況を楽しんでいるようだった。すでに教室からは事態の悪化を恐れたクラスメイトたちがいち早く退散していた。海藤たちの悪行を止めようとする者はいない。そのことに、璃仁が悔しくなかったかと言えば嘘になる。でも、もし自分が第三者だったら、他の皆と同じようにそそくさと逃げていただろう。だから、誰にも文句は言えなかった。

 今、璃仁の気持ちを弄んでいる海藤たちを除いては。

「だってお前、いっつも賢い人間のフリしてるのか黙って本読んでるだろ? なんか見てると腹立つんだよな。どれだけ賢い人の
真似したって、ここは偏差値50の学校なんだぜ? 今更賢いフリをしたって意味ねえんだよ。それよか、まずはその汚いワイシ
ャツを洗うことを学んだ方がいいんじゃないのか? 大好きな母ちゃんに教えてもらえよ。ママ、教えて〜ってね」

 言いながら笑いが堪えきれなくなったのか、海藤は腹を抱えて取り巻きたちと大声を上げていた。キンキンと耳に響く声が木霊して、どす黒い感情が腹の底へと溜まっていく。淀んだ負の塊は、璃仁の口から大きな泡を吹き出すような勢いで吐き出された。

「何、言ってんだよ。海藤の方こそ、今朝上級生の女子に言い寄ってたじゃないか。すごい迷惑そうだった。人の気持ちも、考えろよ」

 璃仁の言葉を耳にした海藤が、ピタリと笑い声を立てるのをやめた。海藤が突然笑うのをやめたことについていけない取り巻きたちの笑い声の残響が、静まり返った教室に散らばった。

「……お前、やっぱり見てたのか」

 その目は竜の目のように鋭く光り、璃仁は今にも狩られてしまうような心地がした。本当は今朝の出来事を海藤に言うつもりなどなかったが、つい激情にまかせて口走ってしまった自分を呪う。けれど、一度吐き出した言葉を今更飲み込むことなどできない。
 海藤は自分が上級生の女子に言い寄ったことを取り巻きたちに知られたのがよっぽど恥ずかしかったのか、顔を真っ赤にして表情を歪めている。取り巻きたちは声を発さないが、「マジか」とお互いの顔を見合わせる。

「嘘つきやがって」

 くそっ、と舌を鳴らし璃仁の机を蹴る。

「お前そのこと、絶対誰にも言うなよ」

「……そんな約束はできない」

「は? 自分の立場分かってる? これ以上俺に逆らったらどうなると思う」

 言いながら海藤は握りしめた拳を璃仁の頭上に掲げる。反射的に目を瞑る。しかし海藤の拳が璃仁の頭を襲うことはなかった。

「海藤、向こうから岡田が来てる」

 取り巻きの一人がいつのまにか教室の扉のところで廊下を覗いていた。岡田というのはこのクラスの担任だ。

「チッ」

 決着はまた今度な、とでも言うように拳を下ろして教室から出ていった。取り巻きたちは先ほどの璃仁の告白にまだ呆然としているのか、一呼吸遅れて海藤の後を追う。
 窓の外をちらちと見ると、先ほど降り始めた雨がいよいよ本降りになっていた。
 そのうち岡田が4組の教室に入って来て、教卓の上に取り残されていた書類を手にする。

「なんだ田辺、帰らないのか」

「……いや、帰ります」

 岡田は少し乱れた教室の机に多少疑問を抱いたのか、首を捻りながら教室から去っていった。