璃仁の期待とは裏腹に、それから2週間、紫陽花とばったり会うようなことはなかった。璃仁の方も何度も図書室や教室まで赴くのは気が引けたので自粛していた。学年が違えばこんなにも会えないものなのかと痛感する。部活動に所属していない璃仁には、あいにく信頼できる先輩もいないので誰かに相談をすることもできない。

 璃仁はまた、紫陽花と出会う前の日常に戻っていた。
 毎朝電車に乗っている最中に紫陽花のSNSを覗き見る。ここ最近は新しい投稿はされておらず、何度開いても前回の投稿が表示されるだけだ。ちなみに前回は、桜の花びらにキスをするような角度で自分を写したものだった。春になると桜を撮りたくなる気持ちは璃仁にも理解できた。去年、入学式の日に校門の前で撮っていた桜も、1年前にきちんと投稿されている。キャプションはいつもシンプルで、その日も「桜の花に口づけを」とだけ記されている。8万回「いいね」をされていて、「可愛い」「素敵」というコメントが散見された。

 もう何度見たか分からない投稿をスクロールして、彼女の美しさに酔いしれる。こんな自分をクラスメイトにでも知られたらたまったもんじゃない。特に海藤。やつは去年から何かにつけて璃仁の揚げ足を取ろうとしてきた。家柄の良い海藤は璃仁の上履きがしばらく汚なかったり誰かのお下がり感満載の使い古した鞄を使っていたりするところに目をつけてきた。実際鞄は父親のお下がりで、上履きは水道代の節約のため母親が2週に一度しか洗うなとルールを作っている。上履きを洗うか洗わないかでどれだけ水道代が変わるかは計り知れないが、母は単に何でも節約しようとする精神が染みついて取れないだけなのだ。

 お金持ちの家に生まれ育った海藤にとって、璃仁の生きている世界が物珍しく面白いのか、事あるごとに璃仁にちょっかいをかけてきた。小学校、中学校、と同じような扱いをクラスメイトから受けてきて高校ではやっと解放されると思ったのにこのザマだ。母親からはいまだに「学校で嫌なことがあっても笑っていなさい。笑えば笑うほど、味方が増えていくのよ」と、一点の曇りのない顔で諭される。さすがにもう小学生ではないので、母親の言うことを熱心に聞くことはないが、自分の教育が原因で我が子が学校で肩身の狭い思いをしているなんて知らないだろう。いや、母親からの教育がなくたって、璃仁は元来社会生活には向かない性質なのだ。いまさら人のせいにしたところで格好悪い。

 また考えてもどうしようもないことが頭の中を支配していた。車掌さんが最寄駅「東雲駅」の名前を告げる。璃仁と同じ東雲高校の生徒たちが扉付近へと集まってくる。次の駅で降りるのは乗り換えのサラリーマンと、東雲高校の生徒がほとんどだ。
東雲駅に到着すると、璃仁は人の流れに押し出されるようにして電車から降りた。行き慣れた駅のエスカレーターを下り、改札をくぐる。

 そのとき、ふと璃仁の視界の右端を見覚えのある横顔が通り過ぎた。見紛えるはずのないその女の子の後ろ姿が、どんどん前方へ進んでいく。紫陽花も電車通学だったのか、と考える暇もなかった。璃仁は人波に押されて彼女の元までなかなかたどり着けない。目的地は同じなのだから、ここから一緒に歩いて行けないものだろうか。改札を抜けると、ようやく人の群れから解放されて早く歩けるようになった。

「紫陽花先輩」

 まだ少し距離があったが、いてもたってもいられなくなった璃仁は後ろから彼女の名前を呼んだ。しかし声が届かなかったのか、紫陽花は振り返らない。もう一度名前を呼ぼう——と息を吸ったそのとき。

「久しぶりじゃん、しお」

 紫陽花の隣に、一人の男子生徒が現れた。璃仁の少し先、斜め前を歩いていた男だ。どこか聞き覚えのある声に、見覚えのあるがっしりとした体格。まさか、とは思ったが顔がはっきり見えないので誰なのかは確証が持てなかった。

 突然声を掛けられた紫陽花は肩をびくっと揺らし、男子生徒の方に顔を向けた。