紫陽花が璃仁のところへ来たのは、週が明けて月曜日のことだった。
朝、いつものように登校して教室で本を読んでいると、新学年早々気怠げな空気感の漂う教室の扉のところに紫陽花が顔を出した。
「田辺くん」
大きな声を出すのが恥ずかしいのか、紫陽花は璃仁に強い視線を送り、璃仁が扉の方へ来るのを待っていた。
「朝から別のクラスのお客さん?」「あれ、でもあの人先輩だぞ」「本当だ、しかもすっごい美人」「てか、紫陽花先輩じゃない?」「「でもなんで田辺に用? 田辺って帰宅部だよね?」「もしかしてそういう関係?」「うわ、先輩相手に手出してんの?」「大人しい顔して手早いな〜」
クラスメイトたちが囁き合う声が、静かな教室に反響して聞こえる。璃仁はこれ以上自分たちのことを噂する声を拾わないように、無言で立ち上がり教室から出ると、後ろ手で扉を閉めた。
「あああ、いきなり来るからびっくりしたじゃないですか!」
紫陽花を2年4組の教室からできるだけ遠ざけようとして、廊下の突き当たりに追いやる羽目になってしまった。側から見れば璃仁が紫陽花をいじめているように見えるかもしれない。
「ごめんごめん。でもきみだって、先週私のクラスに訪ねてきたって言うじゃない」
確かに紫陽花の言う通り、もとはと言えば璃仁が紫陽花の教室を覗きに行ったのだ。紫陽花のことを責められる立場じゃない。
2年4組の教室から離れてようやく心拍数が落ち着いてきた璃仁は、その場でため息をついた。そしてようやく紫陽花に会えた喜びで顔が熱くなった。身体の変化を悟られないように、廊下の窓の方に視線を逸らす。廊下の窓からは校門が見えるのだが、始業時刻が近づいた今、バタバタと焦っている様子で生徒たちが校門をくぐる。一年前の入学式の日、璃仁はあの校門の前で、紫陽花を見つけたのだ。桜の写真を撮っていただけの紫陽花だったのに、食い入るように見つめてしまっていた。あの時の自分と今の自分が、同一線上の世界を生きているなんていまだに信じれない思いだ。
予期せぬタイミングで紫陽花の顔を見られたことで、完全に悦に入ってしまっていた。教室の扉のところに紫陽花の顔が覗いた時、本当は飛び上がりそうなほど嬉しかったわけだ。
「取り乱してすみませんでした。紫陽花先輩、わざわざ来てくださってありがとうございます」
冷静さを取り戻した璃仁は窓の外から再び紫陽花の方に視線を移す。以前会った時と変わらず艶のある唇と大きな瞳が学校中の男どもを虜にするのではないかと心配になる。心配したところで、璃仁は紫陽花の何者でもないのだから本人からすれば余計なお世話だろう。
「いいえ。むしろ、先週学校を休んでてごめんね。教室に来るなんて思ってもみなかったから、ちぃから聞いた時はびっくりしたよ」
ちぃ、というのはおそらくこの間のポニーテールの先輩のことだろう。あだ名で呼んでいるということは結構仲が良いんだろうな、と自分の友人関係を省みながら考える。
「それで、この間は何しに来たの?」
紫陽花が家庭の事情で数日間休んでいたことも気になったが、プライベートなことなので聞けなかった。
「いや、その、大した用じゃなかったんですけど」
気になる人の連絡先を聞くことが「大したこと」ではなかったら、いったいなんだろうと自分自身でツッコミつつ続けた。
「先輩の連絡先を、教えてもらえないかと思いまして」
ひと思いに本音をダダ漏らすと、紫陽花は驚いた様子で目を丸くした。璃仁の方はやはり恥ずかしく、再び窓の外を見遣る。先ほどよりももっと焦った様子の生徒たちが校舎の方へと走っている。頭上で始業の合図である予鈴が鳴った。
「あ、私もう戻らなきゃ。連絡先、また今度でいい? 今さ、スマホ鞄に入れてて持ってないんだ」
「あ、はい。分かりました」
スマホはいつでもポケットに入れて持ち歩いているものだと認識しているのは璃仁だけなのかもしれない。紫陽花の申し出にいささか残念ではあったが、ないものをねだっても仕方がない。それに、また次回会った時に教えてくれると言った。こちらの希望が伝わっただけでも良かったのだ。
「じゃあまた」
「はい」
紫陽花は振り返ると慌てた様子で自分の教室へと戻っていった。
相手の連絡先も持っていないのに「また今度」と言われると、廊下に取り残された璃仁は少しだけ不安な気分にさせられた。やっぱり、いつでも誰とでも繋がることのできる現代人の病気だと思う。
しかし去っていく紫陽花のスカートのポケットの辺りが四角く象られているような気がしたのは、気のせいだろうか。