自分では気づいていなかったのか、璃仁がはっと自分の手を頬に当てる。そんなことをしなければ、自分が笑っていることに気づけないのだろうか。そんなにも、自分が笑っていることが不思議なのだろうか。その目が驚愕で大きく見開かれ、じっと紫陽花を見つめた。

「俺、笑ったのっていつぶりだっけ……。実は俺、笑顔恐怖症なんです」

 突然の告白に、紫陽花は何のことだろうと首を捻る。笑顔恐怖症? 初めて聞いた病名だ。紫陽花の幸福恐怖症と似たようなものなんだろうか。

「その名の通り、笑うのが怖いってやつです。昔、笑ったことが原因で同級生にいじめられたことがあって。それ以降、笑えなくなったんです」

 ああ、そうか。
 これまで確かに璃仁の笑った顔を見てこなかった。
 単にクールな大人ぶっているだけかと思っていたが、璃仁の胸のうちにそんなトラウマが巣食っていたなんて。自分のことしか考えていなかった紫陽花は、気づくことができなかった。

「不思議なんです。紫陽花先輩と一緒にいたら、自然と笑いたくなっていたことが。あんなに怖かったのに、あっさり乗り越えられそうな気がしていたことが。やっと今、分かりました。俺は紫陽花先輩が好きだから、こうして笑うことができるんですね」

 泣き笑いのような表情をした璃仁が、新しい自分に生まれ変わろうとしている様子を、紫陽花はとても愛しい気持ちで見つめていた。そうだ、愛しいのだ。紫陽花はずっと、どれだけ拒んでも自分に向かって来てくれたこの少年に、愛を感じていた。

 病室の窓からさっと秋風が吹き込んできて、頬や首に心地よく撫でた。カーテンが揺れて、璃仁と紫陽花の間を一瞬だけはらりと隔てる。カーテンが引くと、璃仁の透明な瞳がじっと紫陽花を捉えていた。

「私も、璃仁くんのことが好き」

 ずっと言いたかった言葉が、水を飲むようにするりと飛び出した。
 自分の中でこの気持ちに気づいたのは、実は彼とGWに初めて桃畑でデートをした時だった。あの日、桃畑の丘から隣並んで夕日を眺め、幸せとは何かについて語り合った日。璃仁に「悩んでいることがあれば、話してほしい。力になりたいから」と言われた時に、思ったのだ。

 自分は、この人を好きだと思うから、幸せになるのが怖くて苦しいのだと。
 それ以来、璃仁への気持ちが膨らまないように、彼の好意を拒絶しようとした。だけど、避ければ避けるほど、私の胸の痛みがひりつくほどに大きくなっていく。何より璃仁が、私のことを諦めようとはしなかった。

 璃仁の諦めない想いを、紫陽花は受け取ることにしたのだ。
 自分はやっぱり、この人のことが好きだ。
 この、びっくりするぐらい素直で、クラスメイトからいじめられたりなんかして、それでも私のことを最優先に考えてくれる、私のヒーロー。

 璃仁の目が大きく見開かれる。秋風がまた、ひゅっと強く吹き付けて紫陽花の髪の毛を揺らした。風が引くのを待って、顔に張り付いた髪の毛を手で払った紫陽花の唇に、柔らかい何かが触れた。

 甘い吐息を吐いて、璃仁がそっと何かを呟く。胸の中に広がるじんわりとした熱が、自分が求めていた「幸せ」なのだとはっきりと理解した。



「愛してる」





【終わり】