「璃仁くん」

 病室の扉を開けるなり彼の名前を呼ぶと、中にいた女性がはっと振り返る。ちょうど璃仁の前に座っていて、璃仁の顔はよく見えない。女性は見た目からしてすぐに璃仁の母親だと分かり、紫陽花は慌てて頭を下げた。

「ああ、あなたが紫陽花さん?」

「はい。お、お母さん。今日は電話をくださってありがとうございました。そして、息子さんをこんな目に遭わせてしまって申し訳ありませんでしたっ」

 紫陽花は自分のせいで璃仁が大変な目に遭ってしまったことを、どうしても母親に謝りたかった。怒られるのも覚悟で精一杯頭を下げていたが、彼女の口から出て来たのは意外な言葉だった。

「いいえ。むしろ、私が感謝したいくらいだわ」

「え?」

 璃仁の母親がシワの寄った優しそうな目元を細めて、紫陽花をじっくり観察するように見た。こそばゆい気持ちで次の言葉を待っていると、ようやく彼女が口を開く。

「私ね、昔この子に言ったことがあるの。『笑っていればたった一人でも、りっくんのことを好きになってくれる人が現れる』って。それが、あなただったんだわ。璃仁のそばにいてくれて、本当にありがとう。じゃあ、お邪魔虫の私はそろそろ退散するわね」

 ふふっと、柔らかい笑みを浮かべた璃仁の母親が、それだけ言い残すと紫陽花の隣をすり抜けて颯爽と病室から去って行った。
 璃仁の母親がいなくなって、璃仁の姿がようやく目に映る。ベッドに備え付けられたテーブルの上に、手作りらしい蒸しパンが並んでいた。

「……ったく、あんなことこの場で言わないでほしいんだけどなぁ」

 ポリポリと頭を掻きながら、ゆっくりと紫陽花と視線を合わせる。

「紫陽花先輩、お久しぶりです」

 病室のベッドの上で、何事もなかったかのように片手を上げる璃仁を見て、紫陽花は抑えていた感情が爆発しそうなほど込み上げてきた。

「璃仁くん……璃仁くん!」

 自分でもびっくりするほどの勢いで、彼の隣へ行き、璃仁の膝の上に泣き崩れた。

「し、紫陽花先輩大丈夫ですか……?」

 これには璃仁も慌てて、どう反応すればいいか分からないようだった。

「大丈夫なわけ、ないじゃん……! 私のせいで、私のせいで、こんなことになって……ほんっとうにごめんなさいっ」

 謝っても謝りきれないと理解していた。
 もう、璃仁は自分のことなんて愛想を尽かしたのではないかとさえ思っている。
 だから今日は、半分璃仁とお別れするつもりで来ていた。
 璃仁がどんな反応を見せるか分からないが、責められても当然だと思っている。
 だが、膝の上で泣きじゃくる紫陽花の肩を、璃仁はそっと抱いて起こしてくれた。

「謝らないでください。って、いつも先輩が俺に言ってることですよ。俺、言ったじゃないですか。俺は紫陽花先輩のことを守る
って。だから今、感謝してるぐらいなんです。紫陽花先輩のことを守らせてもらえて。残念ですけど、紫陽花先輩が思ってるほど、俺はひ弱じゃないんです」

 いつものように冗談を交えながらそう言う璃仁の目尻に、見たことのないシワが寄っている。母親そっくりの笑い方だ。

「初めて……笑った」

「え?」