ふらふらとした足取りで病院にたどり着き、受付でお見舞いだと告げると、璃仁が眠っている病室に案内された。先ほどの母とのやりとりが頭にちらつく。だめだ。今日は璃仁のお見舞いに来たんだから、気持ちを切り替えようと、必死に母のことを頭から振り払った。

「失礼します」

 個室の扉を開けると、よく見知った少年がチューブに繋がれていた。そのあまりの悲惨さに、紫陽花はその場に崩れ落ちた。

「璃仁くん……!」

 璃仁は3日間、目を覚ましていない。もしこのまま目を覚さなかったらどうしようという不安が胸いっぱいに広がっていく。他の心配事などすべてを飲み込んで、璃仁の身を案じる気持ちだけが紫陽花の頭を覆い尽くした。

 紫陽花は持って来た花束を花瓶に生けて、窓際に飾った。冷蔵庫を開けるとプリンやら果物やら、お見舞いの品が入っていた。きっと璃仁の両親だろう。璃仁の両親に、合わせる顔がない。もし見舞い中に鉢合わせてしまったら、地面に頭を擦り付けるだけじゃ済まないかもしれない。璃仁の両親にとって、きっと璃仁はとても大切な存在だから。

 紫陽花は璃仁の隣に椅子を置いて、そこに腰かけた。

「私、どうしよう。どうしたらいいんだろう」

 我慢しようとしても抑えきれない涙が頬を伝う。悔しさと不安が入り混じったそれは、璃仁の右手の甲に落ちた。
 まだ泣いてはいけない。璃仁が目を覚ますまで、自分は強くならなければ。たとえこの先、母と一生分かり合えなくても。幸福恐怖症が治らなくても。
 紫陽花は鞄からスマホを取り出して、写真投稿アプリを開いた。
 ログアウト状態になっていたアカウントにログインすると、大量の通知と共に例の投稿に対するコメントがずらりと目の前に現れた。フォロワーの数はおよそ十数万人だったが、今や半分の五万人にまで減っていた。

『SHIOのこと、誤解してたわ』

『完全な被害者だと思うけど、憧れではなくなりました』

『さようなら』

 本当の自分を暴露したとたん、去っていくフォロワーたち。もちろん心配してくれるコメントもあったが、紫陽花はその全てに蓋をした。
 これで良かったんだ。
 私はこの四角い箱の中で生きているんじゃない。
 私は、目の前にいるこの男の子と、これからの新しい人生を始めたい。
 そう心の中で唱えながら、アカウント削除ボタンに触れた。


 【アカウントを削除しますか?】


 「はい/いいえ」の二択のボタンが現れて、必要以上に力を込めて「はい」を押した。
 【ログアウトしています】という表示とともに、データを削除しているのか、ロード中の渦巻き表示が現れる。十数万人のフォロワーのために、コツコツ投稿してきた「幸せなSHIO」が消えていく。紫陽花はその過程を、黙って見つめる。高校生インフルエンサーとして活動してきてた全ての過去が、頭の中を駆け巡る。まるで走馬灯のようだ。最後に浮かんだのは、なぜか母と桃畑の丘で笑っている姿だった。
 やがてログアウトが終わり、アプリのログイン画面が表示された。

「さようなら、SHIO」

 掌の中に大切に握っていた花びらが、風に飛ばされていくようにあっけない最後だった。