「魔王さま、勇者を倒しに行きましょう!」

 ここは魔界。
 人間領とは別の、普段は人間が足を踏み入れることはない場所。

 王座に深く腰を据える俺に、彼女は――聖女はそう言い放った。

「いや……聖女が何言ってんだ」


 □


 十年前、俺は勇者率いる人間軍によって敗北した。
 まあ、一対一で勇者に挑んで負けたので、俺以外に被害はなかったんだが。

 魔王討伐の使命を受け、勇者一行の一員であったのが、いま目の前で深々とお辞儀をしている聖女である。
 討伐時は確かめちゃくちゃ幼かったと記憶していたが、おそらく十歳そこそこの年齢だったんじゃないか?それがどうだ、今はこうも大きく成長を遂げている。

「人間の老いの速さは魔族と異なるが、驚いた。随分とデカくなったんだな、聖女」
「はい! しっかりと母の血を受け継いでいたようです!」

 そう言って、聖女は自分の豊満な胸を持ちあげた。

「いや、そこじゃねーよ。下ろしなさい今すぐに。普通に容姿の話なんだが」

 隣に控える俺の右腕、ヘッツがそこしか見ていないのであえて触れずにいたというのに、十年の歳月というのは恐ろしい。
 それも聖女であろう人間が勇者討伐を魔王の俺に持ちかける日がくるなんて、夢にも思わなかった。

 とりあえず理由を尋ねてみると、待ってましたと言わんばかりに聖女は口を開いて話し始める。その内容は正直、ドン引きするようなものばかりだった。

 俺を倒したのち、とある領土を賜った勇者はそこから国を築きあげた。あろう事か街にいる美しい娘や他国の姫君を登城させ、着々とハーレムを作り上げていったという。
 聖女もハーレム要員の一人だったようだが、今回勇者の目を盗んで魔界に来たらしい。

 おかしいな、俺と戦ったときの勇者って20代前半……いや後半に差し掛かっていたくらいか?
その頃から聖女に目を付けていたということだろうか。とんだ幼女趣味だなアイツ。

「幼女趣味だけじゃないですよ。上は熟女、下は幼女……あのハゲの変態具合を舐めないでください魔王さま」
「いや、舐めてるわけじゃないけど」

 つーか広っ! 勇者のストライクゾーン激広っ!! 本物の変態なのか!?

「そういえば、なんで勇者(ハゲ)なんスか? 禿げたんスかアイツ」

 そこが初めから気になっていたヘッツは、とうとう我慢できずに尋ねた。確かに俺も気になっていた。まだ三十代なのに。

「前方からだんだんと侵略されつつありますね。もう手遅れです」
「よかったなあ、ヘッツ。俺たち魔族はその心配がなくて」
「そッスね」

 高齢魔族であったとしても、自分で剃らないかぎり禿げることはない。いつだってふさふさだ。

「って、勇者(ハゲ)の話はいいんです。いえ、よくないんですけど……お話しましたとおり周囲はすでに勇者に見切りをつけています。ですが力で適う者は、人間領に一人たりともいません……ですから魔王さまに倒して欲しいのです!」
「俺も負けたけどな」

 あっはっは、と笑う俺を、聖女はぷくりと頬を膨らませる。

「違います……魔王さまの場合は、違うじゃないですか……」
「聖女?」
「魔王さま! 勇者なんてぶっ潰してやりましょーよ!」
「そうですよ! 女を侍らせるなんて羨ま……いやけしからん! 勇者の分際で!」

 聖女はどこか歯切れ悪い様子だったが、控えて話を聞いていた俺の臣下たちが「許すまじ!」と雄叫びをあげている。いやうるさいからお前ら。

「んなこと簡単に決められる話じゃねぇだろ。勇者と戦うってことは、その問題に国全体を巻き込むんだからな」
「だからって最近、魔王さまは怠けすぎですよ! 目覚めてお食事を摂られ、畑の様子を見て、城でお寛ぎっぱなし! これでは老後の生活そのものではないですかぁ!!」
「いや仕事してるから。書類整理たくさんあんだかんな魔王は」
「でも若干引きこもり気味ッスよね。行動範囲は城内だし」
「引きこもりだー!」

 臣下は大袈裟に嘆いている。本当にうるせぇなこいつら。要するに戦いたくて戦いたくてうずうずしてるだけだろ。この戦闘狂め。
 俺だってたまに相手してるじゃないか。先にへばって地面と長時間口づけしてる奴らに言われたくはない。
 言うに事欠いて「引きこもり」だの「まるで老後生活」だの俺を目の前に言い始め、さすがに鬱陶しくなってきた。
 すう、と息を吸って。

「――お前ら今から夕刻までお牛様の糞を肥やしに変えてこい!! 帰りは城門で待機しとけよ、俺が直々に糞まみれになったお前らがどれだけ貢献したか見てやるからな!」
「肥やし作業なんて、そんな!」
「鬼畜だ、魔王だ……」
「ああ、魔王だよ! 早く元気に糞を混ぜてこい」

 そうして蜘蛛の子を散らすよう窓から出ていく後ろ姿を見送った。誰も扉を使いやしない。

 最近、魔界でのブームは酪農である。長い時を生きる魔族にとって暇は最大の苦痛だった。その暇を埋めるため、こうして数年に一度は平和的なブームを起こしてえっさほいさと取り組むことにしていた。
 世界を我がものにしてやる、なんて思想はもう古い。時代はいつだって平穏であればいいのだ。無駄な争いなんて嫌だね俺は。
 手合わせなら楽しいからいいけど。殺し合いなんてお互い負の感情しか生まないだろ。空気も悪くなるし、空気が悪いと水も不味くなる、水が不味いと作物に影響する。だから俺は魔界で穢れを出したくなかった。

「な、なんだか……とても平和なのですね、魔界って」
「それは〜、魔王さまが父親から政権奪って即位したからッスよ。それまではもう荒れに荒れ……」
「……おい、ヘッツ。なにお前は無関係みたいな顔して立ってんだ?」
「え?」
「お前が一番、俺の悪口言ってたのは聞こえてんだよ! お前も肥やし作ってこい!!」
「うわー!」

 そしてヘッツも窓から酪農園へ飛んでいった。

「……そういうわけだ聖女。悪いが勇者の件は」
「ま、待ってください! もう少し時間をください魔王さま。必ず、必ず魔王さまを説得してみせますから」

 説得してみせますって、本人に言っていいのかそれ?
 けど、おそらく聖女も必死なのだろう。人間領最強の勇者(アイツ)が、最強の変態なんだもんな。
 だが俺も魔界を統治している身だ。民を変態討伐のために振り回すことはできない。魔界に影響が出なければよろしくやってくれ、という気持ちが強いのだ。
 聖女からしたら非情なやつだと思われるかもしれないが、仕方がない。俺は魔王なのだ。

「まあ、客人って扱いで通しておくから。部屋は好きに使ってくれ」

 数日もすれば諦めて帰っていくだろう。
 それまでは魔王城で寝泊まりすればいい。こんな年端もいかない女の子を放っておくのは危ないからな。聖女だし。

「はい! ありがとうございます!」

 聖女は嬉しそうにまた頭を下げた。

「礼はいらないって」

 ……この時の俺は完全に油断していたのだ。まさか聖女があそこまで執念を見せるとは、思いもしなかった。