その声は、これまでのスズカの声とは少し違った。異変に気付いたタカミとカワイが、スズカを見て眉を寄せる。

「そんなに誰かを救いたいなら、あなたたちが身を差し出せばいいわ」
 冷たく言い放ちながら、スズカは口の中に手を入れた。
 口蓋から透明のポリ袋に入った銀色の針のようなものを取り出すと、素早く真横にいたタカミの首に突き刺した。
「うがっ!」
 防衛姿勢をとる間もなかった。タカミは目を白黒させて、呆気なくその場にひっくり返った。

 カワイは驚きを露わに息を呑み、叫ぶ。
「なっ……なんだ、お前! タカミになにをした!」
「悪人は嫌い……。でも、善人ぶったあんたみたいな極悪人は、もっと嫌い。そろそろ殺していいかな? いいよね? もう我慢できないや」
 スズカはゆらりと怪しげな動きで、自身の足首に繋がる長い鎖を拾い上げた。そして、それをぶんぶんと思い切り振り回すと、カワイへ向けて勢いよく放つ。

 ――ガシャァァン!!

 けたたましい音がして、器具台がひっくり返る。肩に振り下ろされた鎖の重みに、カワイが呻き声を上げ、うずくまる。
「このクソアマ……」
 カワイが落ちたメスを握り、スズカを睨んだ。
「ぶっ殺してやる!」
 カワイが地面を蹴り、メスを振り上げスズカに向かってくる。
 スズカはにやりと笑って、向かってくるカワイを軽々と身をひるがえして避けた。
「なっ……!?」
 振り返り、首元に針を打ち込む。
「がっ……!」
 カワイは呆気なく白目を剥き、スズカの足元に転がった。
「うわぁ、口ほどにもない」
 カワイがばたりと倒れると、その振動で床が少し揺れた。

 スズカはゆっくりと振り返る。そして、棒立ちになっている男たちに訊ねた。
「あんたたちの臓器も、私に提供してくれる?」
 一歩、また一歩とにじり寄ってくるスズカに、四人の男たちは青ざめながら、後退る。
「なんだ……何者なんだよ、お前」
「け、警察じゃないよな……?」
 すっかり怯えた顔つきの男たちに、スズカはころころと笑った。
「警察じゃないよ。私、正義感とかぜんぜんないもん」
 スズカはくすりと笑って答えた。
「じゃあ、何者なんだよ!」
 男が震える声で訊ねると、スズカはにやりと笑った。
「私はスズカ・クロキ。そこで伸びてるのは私のバディのサツキ・ツキノ」
「バディだと……?」

 男たちは、呆然と口を半開きにして固まっている。どうやら、頭が回らないようだ。

「私たち、黒ウサギって名前で活動してるんだけど、知ってるかしら?」
「黒ウサギ……? 待てよ。それって、この前俺たちが活動拠点にしてるSNS、『HAKONIWA』をジャックしたハッカーか?」
「嘘だろ、そんな……お前が?」
「そうよ。ま、あんたたちの同業者ってところね」
「同業者ぁ?」
 男たちは顔を見合わせ、困惑の表情を浮かべた。

「私は『HAKONIWA』で依頼を受けて、報酬を貰ってる便利屋。今回の依頼人は、今日の私たちみたいにあんたたちに拉致られて殺されちゃったシオン・ミカワさんのお姉さん」

 スズカの告白に、男たちは未だにピンときていないようだった。

「シオン・ミカワ……? し、知らない! そんな奴」
「あぁ! 俺も知らない!」
 揃って首をぶるぶると振る男たちに、スズカはもともと大きな瞳をさらに大きくした。
「うっそぉ。もう忘れたの? たった二ヶ月くらい前の話よ?」
 と、スズカはわざとらしい口調で言う。

「シオン・ミカワは、今回の私たちと同様の手口で臓器提供の被害にあって亡くなった女性のうちのひとりも。今回、私たちが依頼を受けたのは、彼女の姉からだから間違いないはずなんだけどね」
「嘘だ! 俺たちは、拉致した人間のリストをちゃんと作ってる! その中に、そんな名前はなかったはずだ!」
「あらそう。それならぜひ、目視で確認させてもらいたいところね。そのリスト、どこにあるの?」
「それは……」

 スズカは冷ややかな笑みを湛えたまま、男たちに訊ねた。

 男たちは黙り込む。スズカはふっと笑った。
  
「まぁいいわ。それより知ってた? あなたたちが殺した彼女のお姉さん、実は東大医学部卒の優秀なお医者さまらしいですよ?」

 やけに落ち着いたその声が、男たちの正常な判断をじわじわと奪っていく。

「な……それがなんだって言うんだよ!」

 スズカは光を通さない無機質なガラス玉のような瞳で、男たちを見下ろす。

「彼女の依頼、特別に教えてあげましょうか……」
 男たちの誰かが、喉を鳴らした。
 鎖が擦れる音が響く。まるで時が止まったかのように、部屋の中に深い静寂が落ちた。

「彼女、今都内の臓器移植センターに勤めていて、臓器提供の実績が欲しいんですって。だから、妹を殺した奴を生かしたまま連れてきて、そいつをその実績に使わせてほしいんですって」
 スズカはぺろりと舌を出した。赤く可愛らしい舌の上には、銀色の針がキラリと光っている。

 スズカの言葉の意味を理解した男たちは、さらに顔を真っ青にした。汗でマスクが変色している。スズカの気分次第では、今すぐにでも殺されかねないと感じているのだろう。

「た……助けてくれ! 俺はなにもしてない! 主犯はカワイだ! 俺は付き合わされてただけで……」
「ふぅん?」
「俺だってそうだ! 頼む! 見逃してくれ!」
 スズカは男たちの必死の命乞いをつまらなそうに聞きながら、手に持った鎖をぐるぐると振り回した。そして、不意にその鎖を思い切り振り上げる。
「ひぁぁっ!」
 男たちは情けない悲鳴をあげながら、金属の鎖を避けた。

 スズカの笑い声が響く。

「……あのさぁ、あんたたちなにか勘違いしてない? あんたたちは人殺しなのよ? そこに転がってる二人と同じ人殺し。見逃してあげてもいいけど、たとえ私が見逃したとしても、警察に捕まるのは時間の問題よ。それに……隣に寝てるのって、法務大臣の隠し子なのよね? あの人が死んだらあなたたち、どっちにしろ法でも守ってもらえないんじゃない?」
「そ……それは」
 男たちの顔が凍りついた。今さら状況に気付いたらしい。

 スズカは一度ふぅ、とため息をつき、男たちに微笑んだ。 
「さて問題です。今の状況、どうしたら好転するでしょう?」

 まるで小学生に問題を説く教師のように、スズカは柔らかな笑みを浮かべて男たちを見た。 
 男たちは戸惑うように顔を見合わせている。
 しばらく考えるような沈黙が続いたのち、ひとりが言った。

「よ、予定通り、臓器移植すれば問題ないんじゃないか……」
 周りの男たちも、ハッとしたように手術台で眠るサツキを見る。
「そ……そうだ。今はとにかく、防衛大臣の息子を助けなければ……」

 男たちが絞り出した回答に、スズカは小さく笑った。

「さすが腐ってもお医者さん。頭がいいですねぇ」
 鎖がずるり、と床を流れて音を立てた。
「でももちろん、そこで寝てる男の臓器はダメよ? サツキくんは使えないけど、一応私のお使いウサギだから。となると大変! また新たな問題が出てきちゃったね……?」
 恐ろしく冷静な顔で声を弾ませるスズカに、男たちはごくりと息を呑んだ。

「さて、代わりに誰の心臓を差し出すの?」
「そ、それは……」
 男たちはすべてを見透かしたような瞳で見つめてくるスズカに、顔を引き攣らせて視線を惑わせた。そしてその視線は、上流から下流へ流れる川のごとく、床に転がっている男に向いた。
 カワイだ。

「……こ、この男でいい! こいつはいつも、誰よりいい思いをしてた! 当然の報いだ!」
「そ、そうだ!」
「カワイの心臓をやる!」

 スズカの口角がゆっくりと上がっていく。まるで、待ってましたとでも言わんばかりに。

「そう? じゃあ、あなたたちにはこのまま執刀を頼みたいんだけどいいかしら?」
「わ……分かった。分かったから、その代わり、俺たちのことは助けてくれるよな?」
 男は乞うような眼差しでスズカを見つめた。
「うんうん。私は、見逃してあげるよ。あ、でもその男はもらってくね。依頼人のために実行犯一人は持って帰らないといけないからさ」

 スズカはにこにこしながら、床に転がっているタカミを指さした。

「あ、あぁ……それはかまわない」
 誰ひとりとして、タカミをかばおうという者はいなかった。

「あ、それからもうひとつ」
 男たちは、スズカの笑みにびくりと肩を揺らして怯えた。
「な……なんだよ、まだなにかあるのかよ」
「まあね」
 スズカは男たちを見つめ、にやりと意味深に笑った。

「――さてと」
 ひと仕事を終えたスズカは、手術台の上で眠るサツキの腕に巻きついたドレッシングテープを剥がし、留置針を引っこ抜く。
 そして、自分の頭ひとつ分は大きいであろう体格差のサツキを、片手でひょいっと持ち上げた。

 小柄なスズカの驚異的な力に、部屋の隅で様子を窺っていた男たちはぎょっとして怯えた目を向けた。
 
 スズカはぐったりとしたままのサツキを抱え、もう片方の手で、足元に転がっていたタカミの片足を持つ。

「よし。そんじゃそろそろ帰ろうかな」
 
 スタスタと扉へ向かうスズカに、男たちは安堵の息を吐いた。
「あ、そうだ」
 スズカの足がピタリと止まる。男たちは息を呑み、身構えた。
 ゆっくりと、スズカが振り向く。
「今回私は、あなたたちを逃がすとは言ったけどね。ドローンカメラで移植の様子は見てるから、ちゃんとやってね? 逃げたらどこまでも追いかけて、あなたたちの臓器引きずり出してやるから、そのつもりで」

 笑顔で脅しの言葉を吐くスズカに、男たちは悔しげに奥歯を噛んだ。

 そして最後に、スズカは形のいいアーモンド形の瞳をすうっと細めて、
「残念だったね、あなたたちの言うお馬鹿な若者にハメられて」

 男たちは、その場にへなへなと座り込んだ。

「この半年、あなたたちのおかげで良い暇つぶしになったわ。ありがとね、遊んでくれて」
 男たちは膝から崩れ落ち、しばらく呆然としていた。
「じゃ、執刀頑張ってね。バイバーイ」
 スズカは笑顔で手術室を後にした。

 スズカが去った室内に、再び静寂が落ちた。しかし、静寂が落ちたのはほんの一瞬で、直後、扉からぞろぞろと全身黒ずくめの人物が複数人なだれ込んできた。
 呆然としていた男たちは、再び慌てて身を縮めた。
「ひっ……!?」
 上擦った声で尋ねる。
「だ、誰だお前ら……!?」
 黒ずくめの人物は、全員くるぶしの長さまである漆黒のロングパーカーをまとい、うさ耳付きのフードを目深に被っている。さらに、顔には目元を隠すウサギ型の仮面をつけていた。

 どの仮面の人物も小柄で、華奢だった。彼らは男なのだろうか。というか、大人なのかすら分からない。
「これより、速やかに臓器摘出の準備に入ります」
 妙に高い声――というか、子供の声だった。

 男たちはそのちぐはぐさに、余計に恐怖を抱いた。

「急げ急げ!」
「手分けしないと!」
「こっちはボクが、あっちはキミが」 
「ボクは文書の差し替えを」
「名簿はどこかな、こっちかな」

 手術室の中に大人か子供かも分からない、いや、性別すら不詳の仮面のウサギたちの声が、不気味に響く。

「だから……お、お前らは一体誰なんだって聞いてんだよ!」
 男は堪え切れなくなったのか、とうとう怒鳴った。すると、ウサギたちは動きを止め、一斉に男たちを凝視した。
「ひっ!」
 男たちは引き攣った声を上げる。
「ボクらは黒ウサギの親衛隊。お使いウサギだよ」
「これより、速やかに臓器摘出の準備に入るよ」
 再び動き出したウサギたちは、とことことカワイに群がっていく。
「一、二、三」
 あっという間に手術台にカワイが乗せられる。仮面の人物は慣れた手つきで留置針をカワイの静脈に打ち込み、ドレッシングテープで固定する。流れるような手つきだ。とても素人とは思えない。

 もうひとりが麻酔用マスクをカワイに被せ、さらにもうひとりが点滴スタンドを準備する。 
 手術台の脇には、新たに清潔な器具台が運び込まれた。
「よし!」
「これにて準備完了」
「では」
 手術の準備が整うと、ウサギたちは最後にドローンカメラをセットした。

「これ、勝手にいじらない方がいいよ」
「どういうことだ……?」
「いじると、バーンってなっちゃうかも」
「そうそう。BAN! BAN!」
 男たちはドローンを見て、ごくりと唾を飲んだ。
「キャハハハハ」
「じゃあまたね」
 それだけ言い残すと、ウサギたちはさっさと消えていった。

 数時間にも思えるような数分だった。
「な……なんだったんだ……?」
「さぁ……」

 もはや男たちは、今の光景が果たして現実に起きた出来事だったのかすら、判断できなくなっていた。
 妙に冷静で怪力の女のことも、妙な仮面を被った大人か子供かも分からない黒子のような人物たちも。
 すべてが悪い夢だったのではないかと思えてしまう。

 不意に、誰かが口を開いた。 
「このまま……」
 逃げてしまえばいいのではないか、と、言おうとしたときだった。

 ドローンが機械音を上げて動き出す。ハッとして、男たちは互いを見つめ合う。
 お互い、顔面は脂汗でぎとぎとだ。手術台の上では、カワイが眠りこけている。

 ――ヴィィィイン……。

 ドローンのカメラがじっと自分たちを見ているからだろうか。男たちは、変なプレッシャーを感じていた。
 それぞれ声もなく立ち上がり、無言で何度か頷き合う。
 そして――男たちは、手術台に無防備に横たわったカワイの腹にメスを突き立てた。


 * * *


 スズカはエコライフのビルの地下駐車場にいた。車の後部座席の下に隠してあったいつものパーカーワンピースに着替えると、地べたで眠りこけているサツキの傍らに寄った。

「おーい、サツキくん。いつまで寝てるのー?」
 ぱちぱちとサツキの頬を叩く。
「ん……」
 数度頬を叩いたところでようやく、だらりと緩み切っていたサツキの表情筋が、ぴくりと反応する。
「んん……?」

 眉がひそめられ、うっすらと目が開いた。濡れた瞳がスズカを捉える。
「お。やっと起きたか、僕ちゃん」
 スズカがサツキから手を離すと、サツキの身体がずるりと地面に落ちた。
「あだっ!!」
 サツキは素っ裸のまま、古びたビルの地下駐車場に転がった。
「たた……って、もう! なにするんですか、スズカさん!」
 サツキが情けない声を上げる。そんなサツキをスズカは呆れ気味に見下ろした。
「いや、なにするんですかって……こっちのセリフなんだけど。サツキくんさぁ。そろそろクビにしてもいいかな? 君、今回もずっと素っ裸で伸びてただけでなんの役にも立ってないんだけど」
「はっ! そうでした!? って、きゃあ!?」

 ぼんやりしていたサツキはようやく自分の置かれた状況を思い出した。そして、自分が布一枚もまとっていないことに気付き、慌てて手で大事なところを隠す。
 サツキは瞳に涙を溜めて、スズカを睨んだ。
「すっ……スズカさん!! 見た!? 僕のその……見た!?」
「ないない」
 スズカは真顔で手を振った。あからさまにホッと息を吐くサツキに、スズカはぴしゃりと言った。
「そもそも使えない後輩には興味がない」
「がーん! そんなぁ」
「バイトのお使いウサギたちの方がよっぽど使えるよ」
「はは。まぁそう言わないでくださいよ、スズカさん」
 スズカの辛辣な言葉に、サツキは苦笑を漏らした。

「それにしても無事でよかったです。そういえば、タカミは……アイツら、どうなりました?」
「まったく、起きたら起きたできゃんきゃんうるさいなぁ……」

 スズカはサツキを無視して軽自動車に乗り込むと、グローブボックスの中に隠しておいたもう一台のスマホを取り出し、いじり出した。
 タカミの前で使用したスマホは、彼に拉致されたときに奪われたままである。あれはダミーで、スズカの情報はなにひとつ入ってないからいいのだが。

 ほどなくして、液晶画面にドローンの映像が映し出された。
「おっ、もう臓器摘出始まってる」
「えぇっ!? 嘘、なに!? 誰の臓器!? え、僕生きてる?」
 パニックになっているサツキを冷ややかに一瞥し、スズカはスマホに視線を戻す。
 サツキはスズカの背後からスマホを覗き見た。
「うわぁ……マジか。これマジもんの臓器……うぇぇ、グロ」
 サツキは眉を寄せ、スズカに抱きつきながらスマホ画面を凝視している。
「……サツキくん、苦しいってば」
「あ、ごめん」
 スズカは絡みついてくるサツキをひと睨みしつつ、まだ伸びているタカミへ視線を移した。
 まだ、仕事は終わっていない。
 スズカはフードを被った。
「とにかく今はそいつをミカワさんとこに届けにいくよ。サツキくん、ぼさっとしてないで早く着替えて。タカミを拘束したら車に乗せて」
「了解です!」
 元気よく返事をして、サツキは速やかに黒のロングパーカーに着替えた。スズカと同じデザインのものである。
 続けてタカミの手足を拘束して荷台に詰め込むと、サツキは運転席に乗り込む。
 シートベルトをしっかり締め、エンジンをかけながらサツキはちらりとスズカを見た。

「なに?」
 サツキの視線に気付いたスズカが、スマホから顔を上げずに聞く。
「……いえ、あの……すみませんでした。僕、また役に立てなくて」
「……べつに。サツキくんにはハナから期待なんてしてないし」
「はは……そうですか……」
 サツキはぽりぽりと頬をかいた。
「……でもまぁ、演技自体は上手かったよ。タカミ、全然疑ってなかったし」
 スズカはスマホを操作しながら、淡々と言った。
 不意に褒められたサツキは、嬉しさに頬を緩ませる。
「本当ですか!?」
 スズカはちらりとサツキを見て、ため息を漏らした。
「……いや、なににやけてんのよ。演技以外はダメダメだったんだから喜ばない」
「はぁい」
 サツキはにやけながら車を走らせる。
「まったく、単純ね」
「だって今日は運転するスズカさんも見られたし、デートできたし」
 バカなのだろうか。スズカは呑気なサツキを殴りたくなった。スズカはスマホの画面を消し、車窓に肘をついてサツキを見た。その視線は冷凍ビームのごとく冷たい。

「へぇ……? 君、ちゃっかり擬似デート楽しんでたんだ? 随分余裕があったのねぇ? まあそうよね。君、私がカワイたちと対峙してる間、麻酔用マスク付けてぐーすか寝てたんだもんね」
 恐ろしく低い声に、サツキは身震いした。車内の空気が五度くらい下がった気がする。

「……いや、あの……ハイ、すみませんでした」

 サツキは内心しょんぼりとしながら、ハンドルを握り直した。二人を乗せた赤色の軽自動車は、すっかり薄闇に染まった街を滑っていく。
 スズカは再びスマホをいじり出した。

 運転しながらちらりと画面を覗くと、スズカはSNSアプリを開いているようだった。黒ウサギのアカウントがある『HAKONIWA』だ。
「もしかして、また新たな依頼ですか?」
「いや」と、スズカは首を横に振る。サツキは首を傾げた。

「それよりサツキくん、ラジオつけて」
 スズカは、スマホから目を離さずにサツキに指示した。
「あ、はい」
 サツキは言われるまま、ラジオをつける。ジリジリというノイズ音の隙間から、かすかに女性パーソナリティーの声が聞こえてきた。

『――えー、ここで速報です。たった今、国営放送チャンネルが黒ウサギを名乗るアカウントに電波ジャックされました』
「えっ!」
 サツキは思わずラジオの音量を上げ、耳をすませる。

『電波ジャックの影響により放送は中止、突然手術中の映像に切り替わったとのことです。同時刻、黒ウサギを名乗る人物から通報を受けた警察が、現場と思われる都内のビルに向かったところ、映像にあった手術は実際に行われており、映像内で執刀されていたエコライフ代表のケンタ・カワイと思われる男性はその後死亡が確認されたとのことです。なお、ケンタ・カワイ氏は臓器摘出術をされていたとみられ、隣室でケンタ・カワイ氏からの臓器移植を受けたと思われる二十代男性が発見されました。男性は近くの病院に救急搬送されましたが、搬送後、命に別状はないとのことです。同ビルには複数人の若い男女が鎖で拘束されていたとの情報もあり、詳しい状況は未だ分かっていないとのことですが、警察は未成年監禁、殺人、及び違法臓器売買の疑いがあるとみて捜査を進めて……』

 あまりにも早いスズカの仕事に、サツキは文字通り目を丸くした。
「嘘! もうこんな進んでんの!? スズカさんすご! 手回し早!」

 まだ車が動き出して一時間も経っていない。いくら警察に先に根回ししていたとしても、あまりにも仕事が早い。
 サツキは関心を通り越して感動した。
「もともとやることは決まってたし、予定通りに進めただけだよ」
「はぁ……」

 サツキはちらりとスズカの横顔を見た。

 スズカは現在、大学七年生である。対してサツキは四年生だ。

 清楚で可憐なスズカに一目惚れして同じゼミに入り、少しでもスズカに近付くべく身辺調査という名のストーカー行為をしていたところ、スズカ本人にバレたのである。もちろん、スズカがストーカー男を許すはずもなく、問答無用で殺されかけたのだが、まだ死にたくなかったサツキは、ただひたすら謝り倒したのである。

 サツキの必死な命乞いとまっすぐな好意に、さすがのスズカも気の毒に思ったのか、裏の仕事を無償で手伝うという取引をして、サツキはなんとか命を繋ぎ止めたのである。

 仕事を手伝い始めて、スズカがハコニワの黒ウサギであるということを知ったときはさすがに驚いたが、それでもサツキの気持ちは変わらなかった。
 たとえスズカが、その小さな手で何人もの人を殺めていたとしても、たぶんサツキは彼女を愛することは止められない。

 スズカはサツキに目を向けずに言った。
「いい? これからも私のバディでいたいなら、これくらいのことは朝飯前にやってくれないと困るからね」
「頑張ります……」

 スズカは、可愛らしく健気な女の子などではない。意地が悪いし、可愛い顔をして言うこともやることも残虐だ。

「……あの、スズカさん」
「なに」
「ひとつ、聞いてもいいですか?」
「くだらないこと聞いたら海に捨てるからね」
「スズカさんは、どうしてこんな危険なことしてるんです?」
「……さぁ、なんでだろうね?」

 スズカは意味深に笑った。不意に向けられたその笑みに、サツキはうっかり頬を染める。そして、小さく息を吐いた。
 やっぱり、どう頑張ってもサツキはスズカへの想いを諦めることはできないらしい。

 その後、スズカとサツキは臓器医療センターの駐車場に入ると、車を停めた。

「じゃあ、コノミさんへの報告とタカミの引渡しはサツキくんに頼もうとしよう」と、スズカが言う。
「えっ、いいんですか!?」
 サツキは驚いた顔をしてスズカを見た。
 まさか、失態ばかりのサツキにそんな重要な仕事を任せてもらえるとは思わなかったのだ。
 
「ま、成長してもらうためにも、少しは働いてもらわないとね」
「任せてください!」

 サツキは白衣とウサギの仮面を手に、笑顔で車から降りた。

 ストレッチャーにタカミを乗せ、職員通用口の前で仮面を付けて白衣を羽織ると、使用中と書かれたプレートがぶら下がった会議室にこっそりと入った。

 中には、白衣姿の若い女性がいた。サツキがストレッチャーを押して中に入ると、女性はハッとしたように顔を上げた。今回の依頼人であるコノミ・ミカワである。
「お待たせしました」
「……あなたが『HAKONIWA』の黒ウサギ?」
 サツキはそれには答えず、ストレッチャーを彼女の前に差し出した。
「こちら、約束の臓器です」
「本当に……やってくれたのね」
 仮面越しに視線を感じる。

「テレビ、見ました。エコライフの件、約束通り表沙汰にしてくれてありがとうございました。それに、この男も……妹を殺した奴だけは、どうしても私が殺したかったので。とても満足です」
 と、コノミはストレッチャーの上のタカミを見て冷ややかに笑った。
 その笑みに、サツキは平静を装いながらも背筋がひやりとした。

「この男が、私の可愛い妹を殺したの?」
「えぇ。それとこちら、この男が拉致した人間のリスト表になります」
 スズカから渡されていた紙をコノミに差し出す。コノミはそれを見て、苦しげに眉を寄せた。
「こんなにたくさん……許せない」

 その顔は、どこかスズカに似ているような気がした。

 サツキは静かに口を開く。
「では、これで依頼は完了ということで」
 コノミは頷いた。
「はい。お金は必ず振り込みます。本当に、ありがとうございました」
「ご利用ありがとうございました」
 サツキはタカミをコノミに引き渡すと、スズカが待つ車に戻った。
 無事、依頼を遂行したサツキは、駐車されている赤色の軽自動車に乗り込んだ。
「おつー。どうだった?」
 助手席から呑気な声が返ってくる。

 スズカは未だにスマホをいじっていた。サツキを見ようともしない。少しは褒めてくれるかと思ったのだが、甘かった。

「無事、依頼完了です。ちゃんとコノミさんに渡してきましたよ」
「そう」
 サツキはちらりとスズカを見た。
「……あの、スズカさん。さっきからその……なにしてるんですか?」
「んー?」
 さっきからずっとスマホをいじっているスズカのことが、サツキは気になって仕方がない。

 サツキはハザードを消してウインカーをつけた。雨上がりの空の下に、ちかちかとオレンジ色のライトが点滅する。
 アクセルを踏み込むと、車がすうっと滑り出す。
 ふたりを乗せた軽自動車は、ビルの明かりの隙間を縫うように薄闇の街に溶け込んでいく。

「スズカさん、夕飯フレンチ予約してあるんですけど食べていきません?」
「んー……そうねぇ」

 心ここに在らずの返事に、サツキはムッとしてスズカの手元を見た。
「いったい、さっきからスズカさんはなにを……ねえってば」

 サツキはスマホを覗いた。スマホ画面の中では、例のアバター、黒ウサギが狭い部屋の中でくつろいでいる。しかしそこにもう一体、サツキの知らない不気味な生き物がいた。

「……って、なんですか、そのピエロ。キモ!」
「さっきからうるさいなぁ……。残務処理済ませたら相手してあげるから、少し黙っててよ」

 スズカの言葉に、サツキはきょとんとした。

「残務処理って、それならさっき僕が……」
 すると、スズカの指先がぴたりと止まった。顔を上げ、サツキを見る。
「あ、もうひとつの依頼の方。というか、ぶっちゃけそっちが大元」
「……は?」
「あぁ、そういえば、サツキくんは途中参加だったっけね」
「ちょ、その大元の依頼って、誰からですか!?」
「シオン・ミカワ」
「シ、シオン・ミカワ……」
 どこかで聞いたはずのその名前。
「え、それって」

 サツキは視線を彷徨わせた。

「半年前、黒ウサギのアカウントに依頼メッセージが来たのよ。それがこの人。シオン・ミカワ」

 スズカはとんとん、と指先でスマホの液晶画面を叩いた。そこには、スズカのアバターである黒ウサギと、泣き顔のピエロがいる。ピエロの方がシオンのアバターなのだろう。

 スズカは話を続ける。

「コノミさんの異常な束縛から解放してほしいっていうのが、シオンさんからの依頼だった。コノミさんの今回の依頼、かなりぶっ飛んでたからお気付きでしょうけど、彼女、なかなかネジが飛んじゃってる人でね。妹を溺愛するあまり、平気で法に触れることもしてたらしいの」
「法に触れるって……?」
「たとえばそうね。シオンさんにうっかり惚れちゃった人を魚の餌にしちゃったり?」

 サツキは青ざめた。たった今、その当人と会ってきたばかりである。

「それ、殺人っていうんじゃ……?」
「彼女の依頼を完璧に遂行するには、シオンさんが死んだことにする必要があった。それで、前々から目を付けてたエコライフの違法臓器売買を利用させてもらったってわけ」
「そ、それってつまり……今回の臓器移植の被害者のひとりを、シオンさんと差し替えたってことですか?」
「簡単に言えばそういうこと。そしたら、今度はコノミさんからエコライフへの復讐の依頼が来たんだよ」
「な……なんという……」
 サツキは驚愕した。

 つまり、スズカの言うところによるとこういうことだ。

 半年前――サツキがスズカの正体を知る前の話だが――シオン・ミカワから、黒ウサギ宛に依頼が来た。

 依頼の内容は、束縛の強い姉・コノミからの解放。

 両親を早くに亡くしたコノミは、シオンを娘のように大切に育てたせいもあってか、昔からかなり束縛が強いらしかった。
 シオンがもし自分の元から逃げたとすると、しつこく追ってくるのは間違いないと言う。

「そ、そんなに……?」
 サツキが口を挟んだ。スズカは冷めたように笑った。
「そもそも妹を殺した人間の内臓を自分の患者に移植するっていう考え自体、結構ヤバくない?」
「まぁ、たしかに……」
 それについては、サツキもスズカの意見に同意する。

「ま、そういうことで今後の彼女の安全面を考えた結果、死の偽造が一番かなって」
 その際スズカが利用させてもらったのが、かねてより黒い噂のあったエコライフだった。
 これを機に調べてみると、エコライフはSNSで自殺志願者を募り、違法な臓器売買で荒稼ぎをしていた。

「ご丁寧に拉致した人間のリストを作っているようだったから、その中にシオン・ミカワの名前を入れて、代わりに適当な戸籍を入れ替えたってわけ」

 シオンをコノミの呪縛から救うというのが今回の真の案件である。

 今回スズカは、コノミから逃れたいというシオンをエコライフが殺したということにして、シオンの依頼を叶えた。そして、シオンをエコライフに殺されたと思い込んだコノミが、今度は彼らへの復讐を企ててスズカに依頼をしてきたのである。

 結果、スズカはその両方の依頼をきちんと叶えたのだ。

「で、でも、ずっと監禁されてた人がスズカさんに依頼を頼めるほどの大金を持ってるとは思えないんですけど……」
「あぁ。それはね、私がテストに合格したら依頼を受けるって言ったの」
「テスト……?」
 サツキは眉を寄せ、首をひねった。

「私のアカウントを乗っ取れるかどうか試してみたのよ。話してみたらなかなか切れ者だったし度胸もあるし、サイバー関係に強そうだったからね。結果……一瞬で私のスマホ乗っ取って合格。今回のドローン操作と国営放送のハッキングは私じゃなくて彼女。ついでに、裏で奴らの行動を見張って指示をくれてたのも彼女ね」
「なっ……」

 サツキは開いた口が塞がらなかった。

「ま、お利口さんなお使いウサギが一羽増えたってとこかしらね」
「な……なんでそんな重要なこと黙ってたんですか!?」
「あは。ごめん、言ったと思ってたよ」と、スズカは軽く笑った。

「いやいやいや。笑いごとじゃないんですけど!?」
 サツキは狐につままれた気分だった。

「まぁいいじゃない。結果全部上手くいったんだし」
「それはそうですけど……」
 納得がいかない。

「さて、そういうわけでこちら、依頼人の泣き顔ピエロさんでーす」 
 と、スズカは後部座席へ手をやった。
「は……?」
 サツキはバックミラーを見た。そして、ぎょっとした。

 後部座席には、見知らぬ女性がいた。
 ショートカットで切れ長の瞳の美しい人だ。

「だれ!?」
「はじめまして。シオン・ミカワ改めリコ・クラナです。これからよろしくね! サツキくん」

 リコは涼し気な笑みを浮かべてサツキに自己紹介をした。

「あなたがシオン!? イメージと違うんですけど!!」

 コノミが溺愛するなら、もっと幼くて、スズカのような可愛らしい外見かと思っていたのだ。シオンはどちらかというとボーイッシュで中性的な雰囲気をしていた。

 サツキはバックミラー越しにリコを見つめ、深いため息をついた。

「なんか騙された気分……」
「敵を騙すには味方からって言うからね」と、スズカ。サツキはすかさず反論した。
「いや、今回僕を騙す理由なかったですよね!?」

 後部座席では、リコが肩を揺らして笑っている。
「おふたりは仲良しなんですね」
「いやいや」
「ないない」
 スズカとサツキは即否定する。

「私も早くサツキさんみたいに一人前になれるよう、頑張ります!」
「リコさんは既にサツキくんより全然できるから安心して」
「なっ!」
「本当ですか!?」

 サツキはムッとした顔で、わざと大きなため息をついた。
「はぁ……午前中のスズカさんは可愛かったのになぁ」
「は? なによいきなり」

「スズカさんはちょっと外面が良過ぎですよ。僕、出会った頃からすっかり騙されてます」
「あのね、サツキくん。言わせてもらいますけど、騙されるって言う言葉ほど身勝手なものはないのよ。そもそも、サツキくんは私のなにを知ってたっていうの? なにも知らずに私に理想を抱いて、それと違ったら騙されたとかいって好き勝手騒ぐ。私からしたらたまったもんじゃないんだけど?」

「……た、たしかに」
 スズカの言葉はまさにその通りだった。

「それより私、お腹減った。このままフレンチ食べて帰ろ」
「行きます! やった! スズカさんとデート!」
「がーん。つまり私はお留守番ですか?」
「まさか。私とリコちゃんで行くんだよ」
「えっ!?」
 スズカは極上の笑顔を浮かべて、サツキを見つめた。
「当たり前でしょ? 新入りを置いてくつもりのひとは置いてくわ」
「……いや、あの本当にふたり分しか予約してないんですよ。意地悪とかでなく」
「どうにかしよう? せっかく依頼完了したお祝いなんだから」
「あ、それなら私、お店の予約改竄しましょうか?」
「おぉ! いいね、それ」
「いやダメでしょ!」

 さらっと賛同するスズカをサツキが止める。
「じゃあ別の店行こう。私の行きつけの会員制のバーとかどう?」
「スズカさんの行きつけ!?」
 サツキの瞳がきらりと輝く。

「三人でざっと二百万くらいいくと思うけど、もちろんサツキくんの奢りだよね?」
「すみません、今金欠なのでそれだけは勘弁してください」
 サツキは即座に真顔で謝った。

「あら、お金ないの? それならいいバイト教えてあげようか。単発で一千万稼げるらしいよ」
 一瞬きょとんとしたサツキだったが、すぐにスズカの言葉の意味を理解した。
「……いや、それ俺死ぬじゃないですか!」
「はは」
「まったくもう……分かりましたよ」
 サツキはぶつくさ文句を言いつつも、数日前に予約していたフレンチの店へ向かってハンドルを切る。
「惚れた弱みですね、ドンマイです」
 リコのひとことに、サツキは苦い顔をした。

 はてさて、半年がかりの大仕事を終えたラパンは、新たな仲間を迎えて、東京の夜景の海に消えていくのだった。