木を染めていた可憐な薄紅の花は瞬く間に散り去り、淡く萌え出た若い芽が木を豊かにする。

 絶世の美しさを誇った木も幻想世界を抜けだし、生きるため現実世界に根を張る。

 これからますます緑が輝く季節となる。

 千鶴(ちづる)が南山家にやってきて一月(ひとつき)

 離れの生活にもだいぶ慣れ、奥向きのことは上手くこなせるようになってきた。

 しかし、肝心な看護婦としての仕事をほとんど出来ていない。

 そもそも桐秋(きりあき)と深く関われていないのだ。

 南山(みなみやま)家に来た初日、奥向きのことを教えてもらった女中頭(じょちゅうがしら)に付き添ってもらい、あらためて桐秋に挨拶をした。

 が、彼はこちらをちらりとも見ようとしなかった。

 それからも千鶴は桐秋と接触の機会を伺っているが、なかなか好機は訪れない。

 桐秋は日がな一日、自室に閉じこもっていて、ほとんど外に出ない。

 部屋から出るのは朝の鯉の餌やり、夕方の入浴など自室で済ますことのできない必要最低限の用事のみ。

 部屋の襖もいつも固く閉じられている。

 
 治療には新鮮な空気の入れ替えも必要であるため、千鶴は桐秋の部屋の前を通るたび、気づかれないよう少しだけ戸を開けているが、次に通る時にはぴっちりと閉められている。

 作った食事も部屋に入ることが許されていないため、扉の前に置いている。

 千鶴はなんとか言葉を交わそうと、桐秋が部屋から出てきた時を見計らっては、犬のように桐秋の後をついて回る。

 そのつど、体の具合や食事の献立はどうか、手伝いが必要なことはないか、何かにつけて尋ねるが、返事は返ってこない。

 また、千鶴が深く踏み入れない理由としては、桐秋が自分のことは自分で済ませ、介助(かいじょ)の手を出し損ねているということもある。

 千鶴が派出看護婦(はしゅつかんごふ)として関わってきた患者は、着替えや入浴、何かにつけ介添(かいぞ)えを必要とする人達だった。

 ゆえに、今までと同じように桐秋にも同様の提案をしたが、苦い顔をされた後、きっぱりと断られてしまった。

 いつも千鶴の問いかけには受け答えすらないが、このときばかりは明確に言葉にして、必要ない、と言われた。

 たしかに桐秋の生活を観察していても、不便な様子はまったく見当たらない。

 よって現在、千鶴は桐秋の使う場所や物をきれいにしておく、病人食を用意するなど、補助的な役割しか果たせていない。

 それでもやはり大きな問題はある。

 桐秋が医者の診察を拒んでいるということだ。

 毎朝、南山が雇った医者が離れを訪ねてくる。
 
 そのたびに、千鶴は部屋にこもる桐秋に声をかけるが、中から返答はない。

 医者には千鶴が見た範囲での桐秋の様子を伝え、とりあえず大きく体調を崩す様子はないので、現状、注意深く観察しておくようにと言われている。

 が・・・。

 この一月、千鶴は前任の看護婦のこともあり、桐秋の様子を探りつつ、最低限の看護に努めていた。

 新参者に初めから、あれやこれや言われても煩(わずら)わしいだろうと思ったからだ。

 けれど躊躇ううちにも、桐秋の顔は日に日に青白くなっていく。

 これ以上見過ごすことはできない。

 なんのために自分はここにきたのか。

 あらためて自分の役割を思い出し、千鶴はついに桐秋の部屋に踏み込む決意をした。

 千鶴は寝ているかもわからない桐秋に配慮し、音を立てないよう襖を開け、そっと部屋に入る。
 
 部屋は薄暗く、目が慣れるまで少し時間がかかった。

 そして千鶴はそこで見た光景に言葉を失った。

 挨拶した際に見た桐秋の部屋は、療養のためのベッドと、あとは簡易の家具がある簡素な居室だった。
 
 その構成は変わらない。

 が、そこに追加されたのは大量の本。

 畳にはどこもかしこも本が積まれ、足の踏み場がない。

 ベッドには、寝ていなければならないはずの主人の姿はなく、そこにも本が(うずたか)く積まれている。

 本人はというと、すべての外光が奪われた部屋で、薄ぼんやりとした橙色の卓上ランプをつけ、文机(ふづくえ)で一心に本をめくっている。

「何をしておいでですか」

 その様子に千鶴は思わず駆け寄り、声をかける。

「なぜここに」

 いるはずのない人物が現れたことに、桐秋は眉を(ひそ)める。

 千鶴はその言葉に答えず、まくしたてるように言い(つの)る。

「桐秋様、このように暗い、換気の行われていない部屋で本をお読みになるのはおやめください。

ベッドできちんとお休みになってください。」

 千鶴は接触感染予防の手袋をはめた手で、力一杯桐秋の腕を引っ張り、ベッドに連れて行こうとする。

 が、桐秋はそれを乱暴に振りほどく。

 千鶴も諦めず再度、腕を掴んで連れていこうとするが、またも振りほどかれる。

 何度もその攻防を繰り返すが、桐秋は頑(かたく)なに動こうとしない。

 千鶴は重い息を吐き、桐秋を動かすことを一旦諦める。

 足を向けた先は、桜の庭に面した襖扉。固く閉じられたそこを思い切り開け放つ。

 暗かった桐秋の部屋に一瞬で、(くら)むような光が差し込んで来る。
 
 (ほこり)混じりの淀んだ空気も、新鮮な緑の匂いをまとったものに入れ替わる。

 換気を終えると、千鶴は続いて、所狭しと置かれた本を整えながら片付けていく。

 桐秋はよほど本を読むことが重要なのか、千鶴の行動を(とが)めることもなく、紙をめくる手を止めない。

 千鶴も何も言われないことをいいことに、てきぱきと本を片付けていく。

 本にはところどころ書類が挟まれており、桜病(さくらびょう)の文言が見える。

 本そのものも、桜病や感染症に関する書物のようだ。

 桐秋は病を得てからもずっと、桜病について調べていたのだろうか。

 本の整理が半分を過ぎた頃、開けたままにしていた襖戸から、爽やかな風に運ばれて一枚の桜の葉が、桐秋の部屋に迷い込んだ。

 それはまるで出来過ぎたいたずらかのように千鶴の足元にひらりと落ちる。

 千鶴は大量に持った本で足元の視界が悪く、その存在に気づかず足を(すべ)らせ転んだ。

 千鶴の体重を受け、山積みになっていた本は雪崩(なだれ)を起こし、重なっていた書類は宙を舞う。

 できあがったのは書類と本の海に()かったなんとも珍妙(ちんみょう)な乙女の姿。

 その姿に桐秋はギョッとし、千鶴は一瞬の出来事に何が起こったかわからず、動きが止まっている。

 互いに事態を把握するためのわずかな沈黙。

 先にことを理解した桐秋の目は千鶴の足元に向く。
 
 そこにあったのは、踏まれて汁の出た桜の葉と、無残に破れた複数枚の書類。
 
 後者を見た瞬間、桐秋の中にわずかにあった千鶴を心配する気持ちが、たとえようのない怒りに押しつぶされる。

 千鶴を睨みつけ、青い炎のような高い熱を秘めた冷たい声で言い放つ。

「いい加減にしてくれ。もうほうっておいてくれ」

 千鶴は依然本にまみれ、茫然(ぼうぜん)としていたが、桐秋の言葉に慌ててその場に座り直し、膝の上で拳を作りながら、

「それはできません」

 と言う。

「桐秋様は病人です。きちんと療養・・・」

 桐秋は千鶴の言葉を途中で遮り、全身を突き刺すような眼光を千鶴に向ける。

「病人といって、私を縛り付けるのはやめろ。

 私は自分のことは自分でできる。

 君たち看護婦の手伝いは必要ない。

 食事だって、君たちの作る、味のない細かく刻まれたものではなく、普通の食事を食べることができる。

 なのに、なぜ奪う。
 
 桜病となってから、すべてを奪われ、ここに閉じ込められた。

 
 普通の生活も、大事な研究も。

 みな病気という名のもとに取り上げられた。

 あまつさえ、鯉の餌やりを体に(さわ)るといっていた看護婦もいた。

 君もそんな他の看護婦と変わらない。

 私を勝手に重度の病人と決めつけ接している。

 部屋から出ようものなら、行動を逐一(ちくいち)監視する。

 お独りでできますか、となにかにつけて言う。

 私を何もできない人間にしているのは君たちだ。

 そして今も、君は私の大切な研究を奪おうとしている。

 看護婦は看護だといえば病人からすべてを奪うことができるのか」

 桐秋は一気にそう言うと、久しぶりに声を張り上げたのか、少しせき込む。

 慌てて、千鶴は近くにあった水を差しだすが、桐秋は受け取らない。

 千鶴は水を手元に引き戻すと、桐秋の叫びに胸がいっぱいになる。

 口を引き結び、自分を含めた今までの看護婦達の行いを恥じた。


 今までここに来た看護婦達は、桜病が死に至る病というだけで、勝手に桐秋を重症患者と思い込み、自分たちの看護方法を彼に押し付けていたのではないか。

 その行為は桐秋の心を無視するものではなかったか。

 確かにこの一ヶ月、千鶴は桐秋とまともに会話することはなかった。

 けれども桐秋は自分でできることは、とりわけ丁寧にきっちりとこなしていた。

 千鶴が今まで接してきた患者と違い、衣服が乱れていることもなく、体が汚れているということもなかった。

 桐秋なりに自分のことは自分でできる、という無言の訴えだったのではないか。

 そしてそれは千鶴の目にもはっきり見えていたのだ。

 にもかかわらず千鶴は、それをくみ取ることができず、今までの患者と同じように介護や補助が必要だと勝手に決めつけ、何かにつけて手伝おうとした。

――反対の立場ならどうだ。

 いきなり不治の病と告げられ、動ける体を次の日からことごとく世話されるのだ。

 自分がみじめだとは感じないか。

 桐秋に手伝いを申し出た時、きっぱりと断ったのはきっとそのような思いもあったのだ。

――桐秋の訴えはもっともだ。

――看護婦養成所でも言われたではないか。

 一人一人に寄り添った看護があり、患者をよく観察して、見極めろと。

――自分は何を見ていた。

 千鶴は自身の不甲斐なさに泣きそうになる。

 けれども自身の情けなさで桐秋の前で泣くのはお門違いだ。

 抑えきれない涙をこぼれないよう、必死に瞳にためてこらえる。
 
 そんな千鶴の姿に、桐秋は頭にのぼっていた熱が、少しずつ冷めていく。

 それから間を置き、静かな声で出ていってくれ、と告げた

 千鶴はそれに素直に従い、部屋を静かに出た。