しかし、春の嵐に吹き飛びそうな細い体は地に着くことも、ましてや別世界に行くこともなかった。
「君が見せた表情の理由がやっとわかった」
瞼を閉じたうすぼんやりとした赤黒い視界の中、聞こえたのは、ここにはいないはずの人の声。
「あの時、私が君に桜が好きだと初めて告げた時、
君はほんの一瞬だけ、激情を内に秘める泥眼のような形相を浮かべ、震えていた」
ここにいないはずの愛しい人の声。
「なぜだろうと思っていた。
いつもたおやかな笑みを浮かべる君があんな顔をしたのは初めてだったから・・・。
置いていかれる身になって、それがやっとわかった」
ここにいないはずの愛しい人の怒りを帯びた声。
光を宿す宝石を収めた宝箱が、ゆっくりと開かれる。
恋しい人の現実に呼び止める声を鍵にして。
「それだけ私への愛を欲張り、解いていてどうして諦められる。
どうして離れて幸せになれると思う」
扉が開き、覗いた宝石の瞳には愛する人の姿が映る。
その人はあの時の自分を鏡にしたように怒っていた。
そして・・・泣いていた。
一度も人前で涙など見せたことがない人なのに。
白く細い弱った腕をなんとか持ち上げ、優しい人の雫を拭う。
自分の涙を拭うのが桐秋の仕事なら、桐秋の涙を拭うのも自分の仕事だ。
後悔はないはずだった。
愛した人にすべてを捧げ、罪深き自分は死んでゆく。
それが最善だと思っていた。
でもこの人が自分を強く抱く温かな腕は、そんな決意をもいとも容易く揺るがしていく。
こんなに力強く太い腕ではなかった。こんなに血色のいい肌色ではなかった。
最後にこの腕に抱かれたときは、あんなにも浮世離れした人だったのに。
今は地に根を生やし、生きる力に満ちている。
後ろに携える生命力あふれる山桜がとてもよく似合っている。
「よかった」
その様子に自然とその言葉が出てきて微笑む。
すると、男はまた怒ったように言う。
「よくない。君は私を置いていこうとした。君の、『美桜』の居場所はここだ」
「・・・」
十年以上言われなかった名前だった。
次に呼ばれるときは違和感があるだろうと思っていた。
けれど、その人が、桐秋が、低く柔らかい声で紡いだ春の女王の名を関する名前は、薄絹をまとったようにしっとりと、自身の体にそってなじんでゆく。
「どうして」
驚いた顔で美桜は尋ねる。
「すべてを聞いた」
桐秋は端的に、表情を変えずに述べる。
「でしたら、余計になぜここにいらしたのです」
美桜は問う。
「約束を果たしに来た。
あの花畑での約束を」
その言葉に美桜は目を見開く。
「やっと、君の桜病に対する抗体をもつ抗毒素血清ができた。
君が私を救うために提供してくれていた血液のおかげで」
そう言った桐秋の口調は少し批難めいている。
「私たちはおかしかった。二人とも互いを想い合うあまり、相手の命を思いやるあまり、自分の命を軽んじすぎた。
互いに互いがいないと生きていけないのに、相手さえ生きていればいいと勝手に思い込み、それには気づこうとしなかった。
死ぬ側ではなく、生かされる側になってそれがようやく分かった。
私は君がいないと生きていけない。
君があの時、理不尽に感じた怒りはこれだろう」
そうだ。
そうだった。
あの折、桐秋が死んでゆくことが幸せだといった時、美桜は怒りを感じた。
―― 溶岩のように内からふつふつと沸き立つ憤りを。
それを目の前の愛する人も感じたのだ。
互いに愛していると言いながら、自分の相手に対する愛は信じても、相手からの愛を信じ切れていなかった。
自分が死んでも相手さえ生きていたら、きっと相手は幸せになれる。
そんな身勝手な思いを互いに勝手に抱いていたのだ。
死にゆく自分の幸せは考えても、生きていく相手の幸せを考えていなかった。
変なところで自分たちは似ている。
「一緒に生きていこう。
一緒に幸せになるんだ」
その言の葉をきっかけに美桜の瞳から美しい珠がこぼれ落ちる。
「私が、貴女様を苦しめた私が生きていていいのですか」
強い生に満ちあふれた桐秋に抱かれる美桜の想いは確実に生へと傾いてきている。
けれど、美桜の背負ってきた薄暗い部分がそれを素直に肯定できない。
どうしても、自分の罪を問う自分がいるのだ。
お前は一番大切な人を死の間際まで追いやったのだという顔をしてこちらを覗きこんでいる。
「いい。関係ない。
もし、君が桜病のことで引け目をかんじているのなら、君が発端となった最期の桜病患者として、私は君を許すよ。
だからもう君も自分を許してあげるんだ。
きみは、たくさんの人に愛されている。
生きていて悪いのではない。
生きていていいのではない。
愛される君は生きなければならないんだ」
その許しは、美桜のこれまで生きてきた意味をある意味で否定する言葉。
ずっと、自分は許されない存在なのだと思い生きてきた。
しかし、その否定がなければ、きっと美桜は真っ向から桐秋に向き合うことは出来ない。
いつも桐秋をまっすぐに見つめる、あの光を集めた美しい宝玉と目を合わせることは二度と叶わないのだ。
「君はたくさんの人に愛されている。
両親に、西野先生に、お祖父様に、それから私に」
怪物ではなく、ただの美桜として、桐秋に向き合って貰わなければいけない。
罪深い人間ではない。両親に愛され、生まれてきたただの真白な美しい桜に戻すのだ。
「私たちが互いに純粋に想い合うには、すべてを取り除かなければならない。
桜病もそれに囚われている心もなにもかも取りはらって、そこからまた始めよう一人の、桐秋と、美桜として」
そして、とどめの一言のように告げられる言葉。
「頼む。
私は愛する君がいないと生きていけない」
美桜は、桐秋に頼まれれば、それを叶えたくなってしまう。
桐秋の願いには弱いのだ。
「君は、私に幸せであるようにと願った。そして先ほど、自分も幸せであったと言った。
でもそれは違う。
幸せ、幸いは、“ 咲はひ”花盛りが長く続くという意味だ。
私は君がいないと、盛りを迎えることができなし、君も長くは生きていない。
君がいつか言った人生の花盛りを謳歌できていない、互いに幸せを叶えられていないんだ。
罪悪感や恐怖が愛ではない。
互いに幸せを願い、想いあって《《生きていく》》ことが私たちの愛なんだ」
桐秋はもう一度美桜に伝える。
「共に幸せを生きていこう」
一迅の風が吹く。
いつの間にか自分を責める自分は桜の花びらと共に消えていた。
美しい桜は想いの花びらをこぼし、こらえるように頷く。
流されるのは、後ろめたさもなにもかも取り除かれた、ただただ桐秋のことを純粋に愛するが故の純度の高い澄み切った想いの雫。
桐秋は清水のような涙を美桜が好きな柔らかな笑みを浮かべ、優しく拭う。
そこは都会の喧噪と隔絶された世界。
永遠を誓ったつがいがようやくもとの在るべき形にもどる。
見守るのは、長い刻を生きる山桜。
優しい人生の先人は、これから長い人生を歩む二人の頭上に、たくさんの子ども達を満天に咲かせる。
それはまるで、二人の永遠の花盛りを予期させるかのような、爛漫とした見事な景色だった。
「君が見せた表情の理由がやっとわかった」
瞼を閉じたうすぼんやりとした赤黒い視界の中、聞こえたのは、ここにはいないはずの人の声。
「あの時、私が君に桜が好きだと初めて告げた時、
君はほんの一瞬だけ、激情を内に秘める泥眼のような形相を浮かべ、震えていた」
ここにいないはずの愛しい人の声。
「なぜだろうと思っていた。
いつもたおやかな笑みを浮かべる君があんな顔をしたのは初めてだったから・・・。
置いていかれる身になって、それがやっとわかった」
ここにいないはずの愛しい人の怒りを帯びた声。
光を宿す宝石を収めた宝箱が、ゆっくりと開かれる。
恋しい人の現実に呼び止める声を鍵にして。
「それだけ私への愛を欲張り、解いていてどうして諦められる。
どうして離れて幸せになれると思う」
扉が開き、覗いた宝石の瞳には愛する人の姿が映る。
その人はあの時の自分を鏡にしたように怒っていた。
そして・・・泣いていた。
一度も人前で涙など見せたことがない人なのに。
白く細い弱った腕をなんとか持ち上げ、優しい人の雫を拭う。
自分の涙を拭うのが桐秋の仕事なら、桐秋の涙を拭うのも自分の仕事だ。
後悔はないはずだった。
愛した人にすべてを捧げ、罪深き自分は死んでゆく。
それが最善だと思っていた。
でもこの人が自分を強く抱く温かな腕は、そんな決意をもいとも容易く揺るがしていく。
こんなに力強く太い腕ではなかった。こんなに血色のいい肌色ではなかった。
最後にこの腕に抱かれたときは、あんなにも浮世離れした人だったのに。
今は地に根を生やし、生きる力に満ちている。
後ろに携える生命力あふれる山桜がとてもよく似合っている。
「よかった」
その様子に自然とその言葉が出てきて微笑む。
すると、男はまた怒ったように言う。
「よくない。君は私を置いていこうとした。君の、『美桜』の居場所はここだ」
「・・・」
十年以上言われなかった名前だった。
次に呼ばれるときは違和感があるだろうと思っていた。
けれど、その人が、桐秋が、低く柔らかい声で紡いだ春の女王の名を関する名前は、薄絹をまとったようにしっとりと、自身の体にそってなじんでゆく。
「どうして」
驚いた顔で美桜は尋ねる。
「すべてを聞いた」
桐秋は端的に、表情を変えずに述べる。
「でしたら、余計になぜここにいらしたのです」
美桜は問う。
「約束を果たしに来た。
あの花畑での約束を」
その言葉に美桜は目を見開く。
「やっと、君の桜病に対する抗体をもつ抗毒素血清ができた。
君が私を救うために提供してくれていた血液のおかげで」
そう言った桐秋の口調は少し批難めいている。
「私たちはおかしかった。二人とも互いを想い合うあまり、相手の命を思いやるあまり、自分の命を軽んじすぎた。
互いに互いがいないと生きていけないのに、相手さえ生きていればいいと勝手に思い込み、それには気づこうとしなかった。
死ぬ側ではなく、生かされる側になってそれがようやく分かった。
私は君がいないと生きていけない。
君があの時、理不尽に感じた怒りはこれだろう」
そうだ。
そうだった。
あの折、桐秋が死んでゆくことが幸せだといった時、美桜は怒りを感じた。
―― 溶岩のように内からふつふつと沸き立つ憤りを。
それを目の前の愛する人も感じたのだ。
互いに愛していると言いながら、自分の相手に対する愛は信じても、相手からの愛を信じ切れていなかった。
自分が死んでも相手さえ生きていたら、きっと相手は幸せになれる。
そんな身勝手な思いを互いに勝手に抱いていたのだ。
死にゆく自分の幸せは考えても、生きていく相手の幸せを考えていなかった。
変なところで自分たちは似ている。
「一緒に生きていこう。
一緒に幸せになるんだ」
その言の葉をきっかけに美桜の瞳から美しい珠がこぼれ落ちる。
「私が、貴女様を苦しめた私が生きていていいのですか」
強い生に満ちあふれた桐秋に抱かれる美桜の想いは確実に生へと傾いてきている。
けれど、美桜の背負ってきた薄暗い部分がそれを素直に肯定できない。
どうしても、自分の罪を問う自分がいるのだ。
お前は一番大切な人を死の間際まで追いやったのだという顔をしてこちらを覗きこんでいる。
「いい。関係ない。
もし、君が桜病のことで引け目をかんじているのなら、君が発端となった最期の桜病患者として、私は君を許すよ。
だからもう君も自分を許してあげるんだ。
きみは、たくさんの人に愛されている。
生きていて悪いのではない。
生きていていいのではない。
愛される君は生きなければならないんだ」
その許しは、美桜のこれまで生きてきた意味をある意味で否定する言葉。
ずっと、自分は許されない存在なのだと思い生きてきた。
しかし、その否定がなければ、きっと美桜は真っ向から桐秋に向き合うことは出来ない。
いつも桐秋をまっすぐに見つめる、あの光を集めた美しい宝玉と目を合わせることは二度と叶わないのだ。
「君はたくさんの人に愛されている。
両親に、西野先生に、お祖父様に、それから私に」
怪物ではなく、ただの美桜として、桐秋に向き合って貰わなければいけない。
罪深い人間ではない。両親に愛され、生まれてきたただの真白な美しい桜に戻すのだ。
「私たちが互いに純粋に想い合うには、すべてを取り除かなければならない。
桜病もそれに囚われている心もなにもかも取りはらって、そこからまた始めよう一人の、桐秋と、美桜として」
そして、とどめの一言のように告げられる言葉。
「頼む。
私は愛する君がいないと生きていけない」
美桜は、桐秋に頼まれれば、それを叶えたくなってしまう。
桐秋の願いには弱いのだ。
「君は、私に幸せであるようにと願った。そして先ほど、自分も幸せであったと言った。
でもそれは違う。
幸せ、幸いは、“ 咲はひ”花盛りが長く続くという意味だ。
私は君がいないと、盛りを迎えることができなし、君も長くは生きていない。
君がいつか言った人生の花盛りを謳歌できていない、互いに幸せを叶えられていないんだ。
罪悪感や恐怖が愛ではない。
互いに幸せを願い、想いあって《《生きていく》》ことが私たちの愛なんだ」
桐秋はもう一度美桜に伝える。
「共に幸せを生きていこう」
一迅の風が吹く。
いつの間にか自分を責める自分は桜の花びらと共に消えていた。
美しい桜は想いの花びらをこぼし、こらえるように頷く。
流されるのは、後ろめたさもなにもかも取り除かれた、ただただ桐秋のことを純粋に愛するが故の純度の高い澄み切った想いの雫。
桐秋は清水のような涙を美桜が好きな柔らかな笑みを浮かべ、優しく拭う。
そこは都会の喧噪と隔絶された世界。
永遠を誓ったつがいがようやくもとの在るべき形にもどる。
見守るのは、長い刻を生きる山桜。
優しい人生の先人は、これから長い人生を歩む二人の頭上に、たくさんの子ども達を満天に咲かせる。
それはまるで、二人の永遠の花盛りを予期させるかのような、爛漫とした見事な景色だった。