千鶴が応接間に入ると、千鶴の父は力なく椅子に座っていた。
身体を表す影は長くなり、落ちていく夜の帳と同化しつつある。
その目は遠く風景を瞳にうつしてはいるが、何かを認識しようと機能していない。
千鶴はティーカップを片付けようとテーブルに近づき、静かに声をかけた。
「お父さん」
西野は声をかけたことで、やっと自分以外の存在をきづいたように、肩を揺らす。
「すまない千鶴。昔の師に会って緊張していたのかな。少し気が抜けていたようだ」
苦悩がにじみ出る顔でなお、ごまかすように微笑む西野に、千鶴は顔を歪ませ、言葉を落とす。
「先ほど、南山様と少しお話させていただきました」
その発言に、西野の顔が瞬時に切り替わる。
眼鏡の奥の小さな目が目一杯に見開かれ、鋭く千鶴を捉えた。
「話した」
西野は確認するように、千鶴の語尾を繰り返す。
「はい、お話ししました」
千鶴もそれを肯定するように再度繰り返す。
その言葉に西野は短く
「何を」
と尋ね、乗り上げるように椅子に手をかけた。
温和な父から発せられたとは思えない、腹の底から出た低い声。
千鶴はそれに少し気圧されながらも答える。
「南山様のご子息が桜病に感染され、療養されていること。
私に派出看護婦として、ご子息を看護することを依頼されたことです」
告げられた言葉に西野の顔は歪む。
千鶴はそれに気づかないふりをして話を続けた。
「どうして教えてくださらなかったのですか。
私は看護婦養成所に通い、正式な看護婦の資格を持っています。
派出看護婦も短い期間ではありますが、経験があります。
南山様も方々をあたられたところ、なかなかご縁がなく、こちらに頼まれたとのこ
と。
お父さんはいつもいっておられるじゃありませんか。
どんな人であっても、苦しんでいる人を助ける人でありなさいと。
大学時代の恩師のお子様であれば、なおさらです。
なのになぜ、私に尋ねる前に断られたのですか。
それに最近、派出看護婦の仕事も・・・」
「桜病は風邪やなんかの普通の病とは違う。
分かっていないことのほうが多い危険な病気だ。君も知っているだろう」
千鶴の言葉を遮るように語気を強めて西野は言う。
それに千鶴も反論するかのように強い口調で言葉を返した。
「ではなおのこと、専門の看護知識を持った看護婦が必要なのではないですか」
「千鶴は分かっていない」
西野は椅子を後ろに倒す勢いで立ち上がり、|怒鳴(どな)った。
千鶴は驚き、洋間の絨毯の上に後ろ手に座り込む。
そんな千鶴の姿を見て、西野ははっと我に返ると、すまない、と小さな声で謝り、力なく椅子に戻る。
「私は昔、南山教授のもとで桜病の対応にあたっていた。
ゆえにその恐ろしさをだれよりも知っている。
妻も桜病で失っているから、傍で看病する者の難しさも分かっている。
だからこそ、千鶴にはそんな思いをしてほしくない」
身近で桜病を見てきた父が、普段温厚な父が、ここまで声を荒げて言うからこそ、その病がどんなに恐ろしいものか、千鶴はしかと思い知らされる。
「それに、千鶴まで失うことになったら、私は耐えられない」
西野の最後の言葉に、千鶴は心臓が直に握りしめられたかのように胸が苦しくなる。
―― 公平無私に人を助けてきた父が、私情をさらけ出し、千鶴が行くことを反対している。
それは裏を返せばそれだけ娘である自分のことを大切に想ってくれているということ。
――それでも・・・・。
「お父さん、私のことを深く想ってくださり、ありがとうございます」
椅子の肘掛けをしかと握りしめた父のしわの多くなった拳を、千鶴は両の手で柔らかに包み込む。
その手の温かさに西野ははっとさせられる。
――いつぶりに千鶴に手を握られただろう。
幼い頃の千鶴は手袋をしていても手が冷たく、よく自分がその上から手を握り、温めていた。
しかし今、老いて冷たくなるばかりの自身の手は、千鶴の体温で温められている。
西野は刻の過ぎゆくことの早さに気づかされる。
「それならなおのこと、私はその方の元へ行きたいと思います。
南山様が私にご子息のことをお話になった時、慈しむような話し方に、お子様をとても大事に想っていらっしゃることが伝わってきました。
そのように誰かに心の底から大切に想われている方を、知っておいて放っておくだなんてできません」
千鶴は父の手をしっかりと握って座り込み、下を向く父親に目を合わるように見上げた。
その透き通った瞳は、昔、今と同じように西野の反対を押し切って、看護婦養成所に行きたいと告げられた時と同じ、自分の意志をどこまでも貫くまっすぐなもの。
この目を見れば、何を言っても決心が揺らがないことを父として、医者として西野は知っている。
そこにはもう、自分が守ってあげなければならない幼い娘の姿はかけらもないのだ。
すでに自分がこれからどう生きていくか、千鶴は自分自身で決めている。
大人になった子どもの意志に、父親が干渉することは許されない。
本来なら、千鶴は自分の制止を振り切ってどこへでも行くことができる、
けれど、父である西野の心を思いやって千鶴は許可を得ようとしているのだ。
それは思いやりであり、とても残酷なこと。
それでも、父も娘を思いやり、背中を押してやらなければならない。
西野がふっと顔を上げた視線の先に、額に飾られた色あせた雛菊の栞が目に入る。
昔、友人に貰った大切な宝もの。
――花の言葉は希望だったろうか・・・。
千鶴は自分とは違い、未来に望みをかけているのだ。
「わかった」
西野はのどから絞り出した声で告げると、千鶴の手を一度強く握り返し、ゆっくりとその手を離した。
身体を表す影は長くなり、落ちていく夜の帳と同化しつつある。
その目は遠く風景を瞳にうつしてはいるが、何かを認識しようと機能していない。
千鶴はティーカップを片付けようとテーブルに近づき、静かに声をかけた。
「お父さん」
西野は声をかけたことで、やっと自分以外の存在をきづいたように、肩を揺らす。
「すまない千鶴。昔の師に会って緊張していたのかな。少し気が抜けていたようだ」
苦悩がにじみ出る顔でなお、ごまかすように微笑む西野に、千鶴は顔を歪ませ、言葉を落とす。
「先ほど、南山様と少しお話させていただきました」
その発言に、西野の顔が瞬時に切り替わる。
眼鏡の奥の小さな目が目一杯に見開かれ、鋭く千鶴を捉えた。
「話した」
西野は確認するように、千鶴の語尾を繰り返す。
「はい、お話ししました」
千鶴もそれを肯定するように再度繰り返す。
その言葉に西野は短く
「何を」
と尋ね、乗り上げるように椅子に手をかけた。
温和な父から発せられたとは思えない、腹の底から出た低い声。
千鶴はそれに少し気圧されながらも答える。
「南山様のご子息が桜病に感染され、療養されていること。
私に派出看護婦として、ご子息を看護することを依頼されたことです」
告げられた言葉に西野の顔は歪む。
千鶴はそれに気づかないふりをして話を続けた。
「どうして教えてくださらなかったのですか。
私は看護婦養成所に通い、正式な看護婦の資格を持っています。
派出看護婦も短い期間ではありますが、経験があります。
南山様も方々をあたられたところ、なかなかご縁がなく、こちらに頼まれたとのこ
と。
お父さんはいつもいっておられるじゃありませんか。
どんな人であっても、苦しんでいる人を助ける人でありなさいと。
大学時代の恩師のお子様であれば、なおさらです。
なのになぜ、私に尋ねる前に断られたのですか。
それに最近、派出看護婦の仕事も・・・」
「桜病は風邪やなんかの普通の病とは違う。
分かっていないことのほうが多い危険な病気だ。君も知っているだろう」
千鶴の言葉を遮るように語気を強めて西野は言う。
それに千鶴も反論するかのように強い口調で言葉を返した。
「ではなおのこと、専門の看護知識を持った看護婦が必要なのではないですか」
「千鶴は分かっていない」
西野は椅子を後ろに倒す勢いで立ち上がり、|怒鳴(どな)った。
千鶴は驚き、洋間の絨毯の上に後ろ手に座り込む。
そんな千鶴の姿を見て、西野ははっと我に返ると、すまない、と小さな声で謝り、力なく椅子に戻る。
「私は昔、南山教授のもとで桜病の対応にあたっていた。
ゆえにその恐ろしさをだれよりも知っている。
妻も桜病で失っているから、傍で看病する者の難しさも分かっている。
だからこそ、千鶴にはそんな思いをしてほしくない」
身近で桜病を見てきた父が、普段温厚な父が、ここまで声を荒げて言うからこそ、その病がどんなに恐ろしいものか、千鶴はしかと思い知らされる。
「それに、千鶴まで失うことになったら、私は耐えられない」
西野の最後の言葉に、千鶴は心臓が直に握りしめられたかのように胸が苦しくなる。
―― 公平無私に人を助けてきた父が、私情をさらけ出し、千鶴が行くことを反対している。
それは裏を返せばそれだけ娘である自分のことを大切に想ってくれているということ。
――それでも・・・・。
「お父さん、私のことを深く想ってくださり、ありがとうございます」
椅子の肘掛けをしかと握りしめた父のしわの多くなった拳を、千鶴は両の手で柔らかに包み込む。
その手の温かさに西野ははっとさせられる。
――いつぶりに千鶴に手を握られただろう。
幼い頃の千鶴は手袋をしていても手が冷たく、よく自分がその上から手を握り、温めていた。
しかし今、老いて冷たくなるばかりの自身の手は、千鶴の体温で温められている。
西野は刻の過ぎゆくことの早さに気づかされる。
「それならなおのこと、私はその方の元へ行きたいと思います。
南山様が私にご子息のことをお話になった時、慈しむような話し方に、お子様をとても大事に想っていらっしゃることが伝わってきました。
そのように誰かに心の底から大切に想われている方を、知っておいて放っておくだなんてできません」
千鶴は父の手をしっかりと握って座り込み、下を向く父親に目を合わるように見上げた。
その透き通った瞳は、昔、今と同じように西野の反対を押し切って、看護婦養成所に行きたいと告げられた時と同じ、自分の意志をどこまでも貫くまっすぐなもの。
この目を見れば、何を言っても決心が揺らがないことを父として、医者として西野は知っている。
そこにはもう、自分が守ってあげなければならない幼い娘の姿はかけらもないのだ。
すでに自分がこれからどう生きていくか、千鶴は自分自身で決めている。
大人になった子どもの意志に、父親が干渉することは許されない。
本来なら、千鶴は自分の制止を振り切ってどこへでも行くことができる、
けれど、父である西野の心を思いやって千鶴は許可を得ようとしているのだ。
それは思いやりであり、とても残酷なこと。
それでも、父も娘を思いやり、背中を押してやらなければならない。
西野がふっと顔を上げた視線の先に、額に飾られた色あせた雛菊の栞が目に入る。
昔、友人に貰った大切な宝もの。
――花の言葉は希望だったろうか・・・。
千鶴は自分とは違い、未来に望みをかけているのだ。
「わかった」
西野はのどから絞り出した声で告げると、千鶴の手を一度強く握り返し、ゆっくりとその手を離した。