桐秋に本心を打ち明けてからも、中路の態度は変わらず、何事もなかったかのように訪問医としての仕事を(まっと)うしている。

 千鶴にはあの日、唇から血が滲んでいることを心配されたが、桐秋は乾燥して切れたのだと(うそ)をついた。

 本当のことを言うわけにはいかない。

 そしてむかえた中路の代診最後の日。

 千鶴もそのことを知っており、朝食の席では寂しくなるとこぼしていた。

――彼女の中で、何か答えは決まったのだろうか。

 この日もつつがなく診察が終わり、桐秋は最後に中路に礼を言う。

 個人としては心にわだかまりがあるが、医師としてはしっかりと診て貰った。

 そこは筋を通さなければならない。中路も桐秋の礼をにこやかに受けとった。  

 中路が挨拶をして部屋を出ると、見送りをしてくると千鶴が続く。

 千鶴が廊下に続く桐秋の寝室の扉を閉めた後、桐秋は反対側の外廊下に周り、隣の(ちゃ)()に入る。

 いつも千鶴達が食事をとる場所であり、洋間の隣の部屋。

 桐秋の寝室と、洋間に挟まれた部屋である。

 桐秋は洋間側の壁にもたれかかり、胡坐をかく。

 今週の初め、中路が今日、千鶴の返事を聞くのだといった時、中路から隣の部屋で話を聞いていてほしいといわれた。

 意図はわからない。

 千鶴に対する気持ちを桐秋にあきらめさせるためか。

 はたまた・・・。

 話を盗み聞きすることは千鶴に悪いと思い、桐秋は直前まで悩んだ。

 が、結局今ここにいる。

 今日も家全体の窓は開け放たれており、洋間に入った二人の声が桐秋の耳に入ってくる。

「千鶴ちゃん。この前の話は考えてくれたかな」

 そう問う中路の声は優しいものではあったが、はじめから本題を切り出した。

 しばしの沈黙の後、緊張している千鶴の声が聞こえた。

「まず、私のことを好ましいと思ってくださったこと、大変驚きましたが、純粋(じゅんすい)にお気持ちは嬉しかったです。

ありがとうございます」

 千鶴はゆっくりと、誠実(せいじつ)に、自分に求婚してくれた中路に対し、言葉を選び、話す。

「しかし私は今、桐秋様の看護をさせていただいております。

 私はこの仕事に真剣に取り組んでおり、()そうとは考えておりません。

 ですので、看護婦として先生の地元に行くお話や、配偶者として迎えていただくお話、お断りさせてください」

 相手を気遣(きづか)いながらも、はっきりと断る千鶴の声に桐秋は心の底でそっと安堵した。

 そんな千鶴に中路は言い募る。

「そういうことであれば、桐秋様の看護を続けてもらって構わない。

 来てもらうのは、終わってからでいい。

 ここには長くはいられない。

 それは君も分かっているだろう」

 中路の言葉が桐秋の胸に(くい)をさす。

 遠回しに、けれども確実に、自分の命が長くないことを告げられている。

 そしてそれを千鶴もわかっていることだろうと。

 しかし、

「いえ、必ず。

 桐秋様の病は必ず、治ります。

 私は桐秋様が良くなるまで看病を続けます」

 千鶴は今までに聞いたことがないほどに声を荒げて、中路が言ったことをきっぱりと否定する。

 どこまでもどこまでも、自分の想いを貫こうとする頑是(がんぜ)ない子どものような。

 桐秋はいつもと違う千鶴の声音(こわね)に驚くとともに、その声で放たれた桐秋を思う言葉に、(くるお)おしいほどの愛しさが募る。

 桐秋の手が心ともなく着物の上から胸の中心を掴む。

 なめらかで手ざわりのよい柔らかな絹の感触が、桐秋の手いっぱいに(ひろ)がった。

 しばらくして、千鶴は落ち着いたのか、普段どおりの声で再び話しはじめる。

「それに私は、中路さんがおっしゃってくださったような看護婦ではありません」

 千鶴から発せられた思いもがけない言葉に、桐秋は再び壁側に意識を向ける。

「私は、看護婦としてまだまだ未熟です。

 それでも、その時、その時に、自身に行える最善(さいぜん)で患者さんに尽くしてきました。

 誓ってそれは間違いありません。

 ですが、私が、看護婦である理由は、たくさんの患者さんを救いたいからだとか、一人一人に寄り添いたいからだとか、そんな殊勝(しゅしょう)な理由ではありません。

 とても自分勝手な理由なのです。

 今もそれを叶えるためにここにいます。

 ですから、私は、中路さんがおっしゃるような立派な看護婦ではありませんし、絶対にここを離れるわけには参りません」

 後半になるにつれ、千鶴の語気は強くなっていき、最後の一言には誰も動かすことのできない(いわお)を思わせる重量があった。

 きっと今はあのまっすぐな意志をもつ瞳で中路を見つめている。

「何より、私には心に想う方がいます」

 力強い口調から一転、ぽつりと空気に吐かれた、千鶴のつぶやきともとれる小さな声。

 普通ならば、隣室にいる自分には聞こえないであろう声。

 けれども、それはあまりに揺るぎないものとして桐秋の胸に突き刺さる。

 そうか、その可能性もあるのかと桐秋は思う。

 まさに青天の霹靂(へきれき)だった。

 自惚(うぬぼ)れているわけではないが、千鶴に想っている人間がいることなど考えもしなかった。

 普通、想う相手がいるなら、休みを取って会いに行ったり、手紙の一つでもやり取りするだろう。

 だが、千鶴はここに来てから、そういう素振りも見せていない。

 だから勝手に千鶴のすべてを独占できているような気がしていた。

 桐秋の頭に千鶴が語った初恋の話が思い出される。

 千鶴の想う相手がそこにいる気がしたのだ。

 桐秋が目には見えない千鶴の想い人のことを考えている間に、洋間では千鶴が絞り出すように中路に最後の断りを告げていた。

「申し訳ありません。いただいたお話はお受けできません」

 静寂(せいじゃく)な時が続く。

 しかし、千鶴の姿に決心が硬いことを知ったのだろう、中路の声が(ひび)く。

「分かった。君にも譲れない想いがあるんだね。

 そういうところも千鶴ちゃんらしくて僕は好きだったんだ。

 一生懸命考えてくれてありがとう。

 お元気で。

 後は頼みます」

 中路は最後にそう言うと、想いを置いて、部屋を静かに後にした。

 玄関の扉が閉まる音がしてしばらくすると、隣室からはすすり泣く声が聞こえてきた。

 桐秋は現実に意識を戻す。

 優しい彼女のことだ、中路のことを思って泣いているのだろう。

 自分がどう思っている相手であれ、人を傷つけたことに傷つく、細やかで憐れみ深い女性だから。

 終わりに中路が放った言葉は、千鶴にとっては、桐秋のことを看護婦として頼むという意味に捉えたかもしれない。

 が、実際は隣で聞いていた桐秋に向けられた言葉。

 彼はこうなることが分かっていたのではないかと桐秋は思う。

 好きだったからこそ、こうして彼女が泣いてしまうことも分かっていたのだ。

 そのために隣に自分を待機させていた。 

 千鶴の発した言葉で中路は振られ、桐秋は心乱された。

 それでも、一人の乙女に振り回された二人の男が祈ることは一つ。

――柔らかな乙女の心に、一秒でも早く平穏が訪れますように。

 桐秋は隣の部屋から願うことしかできない。

 千鶴は自分が傷つき泣いていても、桐秋がこのことに介入することを望んでいない。

 背中を預けている薄い壁がなければ、彼女のことを抱きしめられる距離。たった幾寸(いくすん)かの距離だ。 

 でもそれはできない。

 だが、泣いている千鶴を独りにはしたくない。

 ならば彼女が泣き止むまではと、桐秋はその場にとどまり、天井の雫のようにも見える木目(もくめ)を静かに見上げるのだった。