桐明はゆっくりと手を下ろし、のどを潤すように冷え切ったお茶を一気に口に運んだ。

 気持ちが幾段か落ち着くと、隣で黙って聞いていた千鶴の方を伺う。

 千鶴は下唇を噛み、瞳にためた(しずく)を必死にこぼさないよう我慢していた。

 さらに涙の混じる力強い声で桐秋に告げる。

「約束はきっと果たされます。そのために桐秋様はずっと努力されています。

 ご自身が病になってなお、少女との約束を思って、必死に研究されています。

 そのような努力が実らないなんてことはありません。

 どこまでもその方を思われる桐秋様だからこそ、必ず約束が果たされると私は信じています。きっと大丈夫です」

 しゃべっているうちにたまっていた雫はあふれ、千鶴の頬には幾筋もの涙の(あと)ができる。

 が、彼女の光を放つ瞳はまっすぐに桐秋を捉え、桐秋の言葉を肯定してくれている。

 桐秋が誰かにこの話をするのは初めてだった。家族さえ知らない。

 研究を手伝ってくれている親友の下平(しもひら)でさえ。

 桐秋が医者になったのは、周りには父のあとを追ってと思われているだろう。

 親が親であるゆえに、(ねた)みややっかみもこれまで多かった。

 だが、本当の話をして幼い頃の約束などと笑われ、誰かに大切な思い出を(けが)されるくらいなら、断然そちらのほうがましだった。

 しかし、自分が研究を続けるために心を(くだ)いてくれた千鶴には、(うそ)(いつわ)りなく話さなければならない。

 いや、聞いて欲しい、と桐秋は思った。きっと彼女はそんなことで笑ったりしないと分かっていたから。

 予想どおり、千鶴は桐秋の話に親身に聞き入り、自身のことのように涙を流した。

 あまつさえ、夢物語のような幼き日の約束を、桐秋だったら叶うと根拠もないのに言う。

 千鶴以外に、そんな確証もない言葉を言われれば、桐秋は怒りを覚えただろう。

 けれど、彼女の言葉なら信じられる。自分ではない誰かのために、本人でも諦めた望みを叶えてくれた千鶴の言葉なら。

――ああ、話してよかった。

 桜病になってから、進まない研究、自身の病気に焦る気持ちが、常に桐秋にまとわりついていた。

 弱い心の隙間から生じる少女の病を治せるだろうかという不安も。

 が、千鶴が大丈夫だと言うと、(しん)にできる気がしてくる。力がもらえる。

 いつも何事にも真っ向から向き合う彼女の言葉だからだろうか。

 ほんとうに千鶴には何から何まで救われている。

 今も涙を流す千鶴に、桐秋は近くにあった手ぬぐいを差し出す。

 千鶴はそれを受け取り、布に涙の粒を落とす。

 当分、慈しみの雨は止みそうにない。それに桐秋は優しい苦笑を浮かべ、足下に差し込む光にはたと天を仰ぎ見る。

 今にも雨粒が落ちてきそうだった空からは、いつのまにか陽が覗き、暑い雲の合間からさす光芒(こうぼう)が薄いヴェールのように折り重なって地上に降り注いでいる。

 人々からそれぞれに呼ばれるその現象はどれをとっても、いい意味をもつ。

 今の桐秋にとっても天からの恩恵(おんけい)に見えた。縁側にも一筋の光が分け与えられる。

 天からの祝福として夕刻の西日となり、届けられた光の線は、眩しくも柔らかに優しい二人を包んでいた。

* 
 長く続いた梅雨もすっかりとあけ、体に染みる暑さが本格的な夏の到来を予感させる。

 自身の部屋で研究に精を出していた桐秋であったが、そろそろ休憩をいれなければと机から離れた。

 いつも言われている千鶴からの奥ゆかしいお小言が、どうやら自分の体にも染みついてきたようだ。

 そのことを思うと無意識に口角が上がる。

 縁側に出ようと、暑さ対策のため掛けられていた御簾(みす)を上げて外に出る。

 薄暗かった室内から、急に晴れた縁側に出て、桐秋はまぶしさに目がくらむ。

 手のひらで日の光を(さえぎ)りながら目を細め、光に慣れるようそっと瞼を開ける。

 そこに映りこんだのは、庭に水をまく千鶴の姿。

 打ち水だろう。

 少しはしゃぎ、笑顔で遠くまで水が飛ぶよう柄杓(ひしゃく)を扱っている。

 その様子に桐秋は自然と頬を緩ませる。

 そんな彼女は珍しく、明るい色の着物を着ている。

 自身の研究のきっかけを話して以降、千鶴との会話も増え、同席する食事の席で彼女自身の話も少し、話してくれるようになった。

 その会話の中で桐秋は千鶴が着物が好きだということを知った。

 なんでも、骨董市(こっとういち)などで売られている古着の中から、自分好みの着物を探し、手を加えて着るのが好きなのだという。

 桐秋にはそのことが意外だった。

 ここにきて数ヶ月、千鶴がそういった着物を着ているところを見たことが無かったからだ。

 いつも着ているのは、木綿(もめん)の地味な色の無地で、柄が入っていても単一な縞《しま》が描かれたもの。

 さすがにそれが若い娘の好むものでないことは桐秋にも分かる。

 仕事中ならばそれは正しいことではあるが、千鶴は休みもとらない。

 前の看護婦などは、時々女中と交代で休みをとり、派手な着物や洋服でどこかに出かけたりしていた。

 桐秋からも休むよう何度かすすめたが、やんわりと、しかしきっぱりと断られた。

 それどころか千鶴は離れを長く開けることもしない。

 ならばここでの時を少しでも快適に感じて貰おうと、千鶴が好きだという着物を贈ろう、と桐秋は考えた。

 彼女がいつも自身にしてくれるように、桐秋も千鶴が少しでも喜ぶことをしたくなったのだ。

 桐秋は早速、南山家の古くからの使用人であり、自身の乳母(うば)でもあった女中頭に頼み、夏用の着物を取り寄せた。

 彼女に似合いそうな明るいレモン色の(しゃ)薄物(うすもの)だ。

 当初、桐秋は同じ夏の装いであり、値の張る、細かい織目の()の薄物を贈ろうとした。

 すると、昔から桐秋に忌憚(きたん)なく意見を言う女中頭にそれは相手が萎縮(いしゅく)するから軽い装いの紗の着物にしろと言われた。

 その意見を取り入れ、紗の薄物にしたが、中でも上質な絹糸で、柄の浮かび上がる紋紗(もんしゃ)を桐秋が選ぶと、女中頭からは結局、呆れた顔で見られた。
 
 が、後悔はしていない。

 帯は編み目の大きい涼しげな()の深緑の帯、帯揚げは淡い水色。

 用意した着物一式を、桐秋は昨晩、夕食の席で千鶴にいいときに着てくれ、と言って渡した。

 そっけない言い方になったのは少しの照れだ。

 千鶴は最初それを恐れ多いと遠慮していたが、最後は少し困った顔で、それでも嬉しそうに受け取ってくれた。

 そのこともあって、今日離れの奥向きのことを一通り済ませてから、わざわざ着替えてくれたのだろう。

 夏の日差しにうっすらと透ける黄の薄物を身に纏い、のびやかに水をまく健康的な乙女の姿に、桐秋は障子の枠にもたれかかりながら、まばゆいものを見るかのようなまなざしになる。

 千鶴は桐秋が見ていることにも気づかず、緑が濃く深くなってきた夏仕様の木立に、楽しそうに水をまく。

――まるで水の精だ。

 桐秋の脳裏に不意にあの懐かしい本の妖精の姿が思い浮ぶ。

 植物に水をまき、成長を促して夏を告げる水の精。

「・・・」

 なぜ妖精がでてきた。

 そう思いいたった自身の思考に疑問が生じる。

 自分が人を妖精に例えるのはこれで二回目。

 そのたびにどんなことを想い、考えていただろう。

 思い返してみると、桐秋は取り返しのつかない感情にとらわれていることに気づかされる。

 その時、千鶴も桐秋の視線に気づいたようで、自身のはしゃいだ行動が見られていたことを恥ずかしそうにしながらも、はにかみながらこちらに手を振ってくる。

 桐秋はその姿に手を伸ばしたい気持ちになる。

だが、《《自分にはそれができない》》

 桐秋は湧き(いず)る感情を抑えながら、こちらに燦々(さんさん)たる笑顔を向ける千鶴に答えるよう、軽く手を上げるのだった。