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紫乃は通学鞄も持たずに電車に乗り込んだ。幸いモバイル定期だったのでブレザーのポケットにあるスマホで帰路についたが、部屋のベッドで横になっても体調は変わらなかった。
治まるどころか肌は熱くなり、呼吸も疎かになっていく。
(頭、痛いっ……苦しい、熱い。どうしよう、これ、救急車呼んだほうが――)
紫乃が枕元に投げたスマホに手を伸ばそうと動いた瞬間だった。
『その紫の魔女って呼び名、なんだか慣れないなぁ』
『あーあ、この浄化が終わったらのんびり旅でもしたい。美味しいものを食べて、観光地行って、それで遊んだり』
『これを聖女だけの力にする? 教団の都合で? 確かに魔法技術は魔法陣の展開を中心に発展しているけど、精霊魔法があれば』
『そんなに、許せない? だからって、』
ぱちっと、紫乃は大きく目を開き、そして声をあげた。
「殺すとかありえないんですけど――!!!」
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紫乃は思い出していた。
ずっと思い出すことができなかった、自分の記憶について。
これはいわゆる一つ前の人生――『前世』というものだと、記憶をゆっくり巡らせながら結論づけた。
紫乃の前世は、バイオレットという名前の魔女だった。
異世界――ポロネス大陸国の孤児として生まれ、紫の髪と目をしていたのでいつの間にかバイオレットと呼ばれていた。
バイオレットは魔法の才に溢れていた。次々とオリジナル魔法を編み出し、たった十数年で魔法文明を発展させた彼女は、いつしか『紫の魔女』と敬われ、多くの弟子たちを抱える立場になった。
やがて瘴気に関する研究に力を入れ始め、バイオレットは通常の魔法よりもさらに効果のある魔法があることに気がついた。
そしてそれは、瘴気をより浄化させることができる魔法でもあった。その魔法こそ『精霊魔法』といって、精霊と意識を共鳴させることにより、イメージを伝えて魔法を発現する方法だった。
魔法陣の展開がない精霊魔法は、発動速度もさらに上がり、なおかつ瘴気の浄化に適したものだった。
誰でも簡単に精霊魔法が扱えるわけではないが、バイオレットやその弟子たち数人なら十分に出来うる魔法だった。精霊魔法があれば世界中にいる瘴気に脅かされる人々を助けられるかもしれない。
そんな希望を胸に提案した精霊魔法は、とある教団によって一蹴されることになる。
聖女という古来に存在した女人を信仰する聖女教団。彼らの拠点はポロネス大陸国の西側にあり、街に住む民は信徒という特殊な集団だった。
聖女は国内、国外から特別視される存在であり、聖女が扱う浄化魔法は神のみわざとして称えられていた。
聖女の浄化魔法の正体こそが精霊魔法で、それを暴く形となったバイオレットは、教団から目をつけられてしまったのだ。
結果的にバイオレットは教団に消された。
聖女の尊厳を保つことを使命とした信徒たちによって。
拘束されて殺される瞬間、バイオレットの心に浮かんだ感情は、恐怖や憎しみよりも、失望感が勝った。
この時のバイオレットは齢16。あまりにも短い生涯であった。
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「……いくら教団以外には知られたくない魔法だったからって、殺すとかどうかしてるでしょ」
ぼんやりと部屋の天井を見つめる紫乃は、バイオレットだったときのことを思い出して苦笑する。
死ぬ間際のことはあまり思い出したくない。
嫌な記憶を振り払うように起き上がり、紫乃が向かったのは姿見の前である。
「もう、完全に染まってる」
今朝までは気持ち程度にあった瞳の黒も、今はすべてなくなって美しい紫に変わっている。
まるで前世のバイオレットの色をそのまま閉じ込めたような、懐かしくもある色だった。
(通りでずっと心がモヤモヤするはずだよ。私の心の半分が覚醒していなかったんだから)
もう、おかしな焦燥感はない。
気分はすっきりしていて爽快だった。あれだけあった胸騒ぎや息苦しさ、頭の痛みも消えている。
(最後の瞬間は結構覚えているけど、その他は案外薄いな。生い立ちはなんとなく残ってて……うーん、友だちとか弟子の顔は全く出てこないし、印象的な思い出もない)
それはおそらく、主体となる人生がすでに紫乃となっているからだろう。
(仕方ない、ひとまず諦めよう。前世の私を思い出しただけでもありがたいんだから)
紫乃はひたすら転げ回って皺になっていた制服のシャツを脱ぎ、部屋着に着替えた。
喉が渇いたのでリビングで水を飲もうとしたところで、インターホンが鳴る。宅配業者だった。
「重っ……燈真兄、こんなに何を送って……」
まさに兄の愛の重さ。ダンボール箱はありえない重量である。
中身を確認すると、化粧品や雑貨、小物が入っていた。
まるでオシャレに興味があった紫乃の気持ちを見越したような選択で逆に怖い。
箱の一番奥には、ほんのりと魔素の気配がある装飾箱が置かれていた。見たところポロネス大陸国で製造されたもののようだ。
「あ、これ!」
紫乃は声を弾ませた。
装飾箱にはブレスレット型の魔法具が入っており、一緒に添えられたメッセージカードに『お守りにもなるらしいから、これも誕生日プレゼントだ』と兄の字で書かれていた。
「燈真兄、ありがとう!!」
紫乃は装飾箱ごとぎゅっと抱きしめてにこにこ笑う。
その後、魔法具ブレスレットを手首に掛けて、ゆっくりと魔素を感じた。
「やっぱり空飛ぶのって、気持ちいい〜!」
場所は移り変わり、紫乃は空の上にいる。
いてもたってもいられず、兄から貰った魔法具を使ってさっそく空を飛ぶことにしたのだ。
魔導具に分類される魔法の絨毯や箒はないので、紫乃は部屋の丸いカーペットを代用した。
久しぶりの魔法なのでどうだろうと思ったけれど、感覚を思い出せば結構簡単に浮遊はできた。
「これこれ、やっぱりこうでなくっちゃねー!」
気分はどんどん上がって声も大きくなる。途中ですれ違った浮遊者からも変な目で見られはしたが、全く気にならなかった。
「こらー、そこの君! スピード出しすぎ!」
ふと、後ろから声がして振り返る。
箒に乗った警備隊が顰めた表情で近づいてくるのがわかり、紫乃はハッと我に返った。
(そうだ、空の警備隊がこうして巡回しているんだっけ! まずいまずい、今止まったら浮遊許可証を見せてって言われる!)
空を浮遊するには魔法士機関が発行する浮遊許可証がいる。つまり運転免許証と同じ役割なのだが、もちろん紫乃は持っていない。
捕まれば都内の魔法士機関支部に連行された挙句、警察署に行って事情聴取されるだろう。
未だに魔法の規定には曖昧なものが多く、浮遊許可証がなくても法律に触れたりはしていないが、補導されるのは面倒である。
(それにお母さんは、あんまり魔法士とかをよく思っていないというか……気味悪がってたし、まだ知られるのは……)
実をいうと、両親の離婚は兄に魔法の才能が発覚したことも原因の一つだった。紫乃の母親は当時よくわからない魔法の力を持つ燈真を恐れたのだ。
(ということで、ここは退散)
紫乃は上空の指定浮遊距離に気をつけながら公園の上を飛び回り、警備隊の目からなんとか逃れる。
急いで自宅マンションに戻ると、その日は久しぶりに魔法を使ったこともあり、カーペットの上で寝落ちしてしまった。