ぷちん。
電話が切れると同時に、誰もいない夜のオフィスで涙が溢れた。
ーーなんで私、こんなに頑張ってるんだろう。
耳の奥までガンガンと、クレームの怒鳴り声が染み付いて離れない。
席についたままパートさんたちや同僚の前で泣くわけにはいかなくて、唇を噛み締めて、傾聴に徹した午後23時。
終電にはぎりぎり間に合う時間だ。
ーー健康食品の通販会社、そのコールセンター部門のCV。
いわゆるいわゆる電話口に出るオペレーターの向こうにいる「上の人」が私だ。今日は私の管理する架電チームのパートの一人が、退勤寸前の20時45分に大クレームを起こした。ただのフォローアップコールに対して一時間も延々と罵倒され続けたパートさんも可哀想だが、彼女が電話口で泣きながら客に言い返してしまったのだから、たまったもんじゃない。
上司として大クレームを引き継いだ私が、その後延々とクレームを聴き続ける羽目になった。
電話の向こうのおじさんは、音が割れる音量で喚き散らす。
「俺は上司に代わってくれって言ったんだ。なんであんたが出てくるの」
「こんな時間まで仕事して、あれかい? どうせ男もいないんだろ」
「……申し訳ございません。全て私が至らないばかりに、不手際を招きお客様にこんな遅い時間までご迷惑をおかけしております」
「ふん、まったくだよ」
客に言い返してしまったパートさん、彼女の上司である私に当然落ち度がある。
ただただ声色を申し訳なさそうにして、平謝りして怒りが収まるのを待つしかない。
上司として私は、ただただ相手が納得するまで謝罪を続け、相手の落とし所を探るのが仕事。パートは泣きながら周りによしよしと宥められながら帰り、同僚たちは苦笑いで私の机に飴を置いて去っていく。
ーーSVは体力勝負の仕事だ。
自分より一回り以上年上のパート女性の管理と指導。指示書の作成に売上データ報告、営業報告に卸売業者とのやりとり。悪い意味でフレックスタイム、みなし残業、土日休みなんてもってのほかーーその代わり給料だけはまともなのが救いだ。
その給料も病気やストレス解消の散財で消える人が多いのが実情だけど。
女性社員はそこそこ入社してくるし、全社で見れば管理職にだっている。けれど当事業部には今のところ、正社員の女性は私しかいない。
事務業務は契約社員の人ばかりで、男性社員は時々そこで彼女を捕まえて結婚している。
「……うそ」
社内チャットに業務日報を送信したところで、入れ替わりに支店長からのチャットが届く。アポを取って常盤と一緒に直接謝罪に行くこと。
ーー常盤は、私と同期入社の男だ。
多少客にタメ口を使っても許されるような明るい調子と体育会系育ちのパワーで、私よりも成績が悪くても妙に気に入られて、私よりずっと社内の評価が高い気がする。私は心を無にして返信をタイプしながら、無力感を感じていた。
ーー常盤、私より先に出世するんだろうな。
支店長が常盤を連れて行けといったのは、私だけでは収められないと思ったからだろう。クレーム客のお爺さんはきっと、私と彼が並んだ時、彼を謝罪の『本命』だと思って接するだろう。
女でクレームを引き起こした私はきっと、空気になる。
それなら責任持って、12時間私が罵倒される方がまだマシだ。心が。
「はー……私も転職しようかな……」
鍵をかけながら、独り言にしては大きめの声で呟く。
ーー髪もぼろぼろ。服だって毎日ルーティーンで同じのしか着ていない。
これだけ頑張って仕事をしても、私は男性社員の常盤よりも評価されない。
ーーなんでこんなに努力してるんだろう。無意味、なのに。
◇◇◇
滑り込んだ最終電車。
連休中日の夜なんて、誰も乗っちゃいない。
私がぐったりとしていると、気がついたら知らない駅で電車が止まっていた。
「うそ、終点……?」
私が呆然と電車を降りると、そこは真っ暗だった。
誰もいない。照明も私がいる場所と、改札しか灯っていない。蛾の一匹すらいない無音の空間に、私は怖くて一気に目が覚めた。
「駅員さんもいないの……? む、無人駅なんてあったっけ……」
肩にかけたビジネスバッグの持ち手をギュッと握り締め、そろりそろりと駅の階段をおりる。
駅は廃墟に近くて、壁に貼られたポスターも妙に古くて見覚えのないものばかり。改札には誰もいなくて、自動改札すらない。出る時音が鳴って誰かが来てくれることを祈ったけれど、響くのはパンプスが床を踏みしめる音だけだった。
駅の外は真っ暗で、目の前には廃墟の商店街が広がっていた。
ーー怖い。
悲鳴を押し殺す。草がぼうぼうに生えていて、アーケード街らしきものはボロボロ。真っ暗なゲームセンターの壊れたネオンが、月明かりに死んだ魚の目のような色で照らし出されている。
「ここ、どこ……うそ……」
スマートフォンは充電が切れている。
「う、嘘でしょ? こんなことって……待ってよ」
野宿しかないのだろうか。ただただ怖い。
見上げると空が妙に明るくて、星がいっぱいに輝いているのがますます不気味だ。空が華やかだからこそそ廃墟の真っ暗が余計に墨で塗りつぶした大きな化け物のようだ。
「だ、誰かいますか……?」
泣きたい気持ちを抑えて一歩一歩、私は商店街の方へと向かう。
頭の隅に、ネットで流布した都市伝説が過ぎる。
ーーある女性が日常的に乗っている電車で、見知らぬ異界の駅に迷い込んだ話。
どこまで行っても人がいなくて、不思議な駅で迷子になったまま連絡が途絶えて。
私もついにあの都市伝説の仲間入りをしたのだろうか。
冗談じゃない。もう27歳で、社会人で、アラサーで。
都市伝説なんて信じてきゃあきゃあ言えるような歳でもないのに。
私はむしろ自分の正気を疑い始めた。疲れて幻覚が見えるようになったのかもしれないーー
その時。
廃墟のアーケード街の奥の方に、あたたかな明るい店の明かりが覗いているのに気づいた。飲み屋だろうか、食堂だろうか。暖色の明るい光に思わず駆け寄る。
表には『食堂』の大きな二文字が描かれたサイン看板が淡い光を放っている。
「よかった……」
私はほっと肩の力を抜いた。よかった、とにかく誰かいる。
私はパンプスを鳴らしてそこまで早足で向かう。一度も入ったことのないお店に一人で入るなんてちょっと勇気がいるけれど、廃墟のアーケードに佇んでいることの方がよっぽど怖かった。
そのお店は磨き上げられた木製の古風な外装をしていた。
店の中はマホガニーの調度品で整えられ、落ち着いた懐かしい洋食屋、個人のレストランといった風情だ。天井には暖色のシャンデリアが輝き、テーブルには糊のきいたテーブルクロスがかけられている。深夜とは思えないホッとする雰囲気に拍子抜けする。
どうやら誰もいないようだが、奥の方で白いエプロンと女の子の後ろ姿が揺れた。女の子を見ると、急に心が安らいできたのを感じた。
私はドアを開く。ドアベルがカラカラと大きく鳴り響く。
ーー店内には、甘いカレーの匂いが広がっていた。
「いらっしゃいませ!」
奥から先ほど見えたウエイトレスさんが現れた。和服にこれまた糊のきいたエプロンを纏った、明治ドラマの「女中さん」といった感じの女の子だ。真っ黒なおさげ髪を二つに結って、まるで朝の連続テレビドラマから飛び出したような姿だ。
「いらっしゃいませ、お好きなお席にどうぞ」
にっこりと笑う。
明らかに十代のように見える。就業規則的に問題はないのか気になるけれど、今はつっこみを入れる元気もない。私は窓辺の四人掛けの席に腰を下ろす。
革張りのソファが心地よく軋む。テーブルには生花が飾られていて綺麗だ。
さっとお冷とメニューを出される。
そこには『思い出』とだけ書かれていた。
「……思い出?」
読み上げた私に、ピカピカのトレイを持った女の子が答える。
「ふふ、今日はカレーですよ。すぐにご準備しますね」
「ありがとう」
こちらの注文を聞いて用意する店ではなく、入ったらもう有無を言わさずメニューが決まっているタイプのお店らしい。
定番定食や今日の日替わりしかない、個人店らしいやり方だ。
けれど今日は何か注文を考えてお願いする元気はない。
女の子が奥に「カレーおねがいしまーす!」と入っていく声を聞きながら、私はそっと水に口をつけた。
カレーの匂いはいかにも洋食屋といった匂いではなく、どこか嗅ぎ覚えのある匂いだ。煮込みすぎていない家庭のカレーの匂いって、確かこんな感じだった気がする。メニューが一種類なのに珍しい、と思う。夜から営業だとしても、大抵のお店のカレーは大鍋でつくられ、しっかり煮込まれているはずだ。
「お待たせしました!」
真っ白なテーブルクロスの上に出されたのは、カレーとサラダのセットだ。
サラダは千切りキャベツにスライスしたきゅうり、プチトマトにマヨネーズがかけられて。丸く添えられたポテトサラダはいかにも市販のもの、といったものだ。
真っ白なカレー皿に盛られたカレーは、綺麗に半分にご飯とカレーが分けられたもので、具はほとんど溶けていない。真っ白く輝く炊き立てのご飯と同じくらいこんもりごろごろ、ジャガイモやにんじん、玉ねぎ、グリーンピース、コーンが強く主張している。
まるで子供が「カレーを食べたい!」と思ったら想像するカレーという感じだ。
「いただきます」
見ていると急にお腹が空いてきた。
私は手を合わせ、陶器製の可愛い持ち手のフォークでカレーをすくう。
口に入れると懐かしい、カレーらしい味が口の中に広がった。
ーーひと煮立ちだけの、ルーに練り込まれたスパイスがはっきりとしたカレー。
ジャガイモは事前にレンジで火を通して時短で調理された、鋭角がはっきりとしたもの。噛んで断面を見てみると、カレーが染み込まないジャガイモ本来のほくほくとした色が覗く。にんじんも本来の甘さと歯応えを楽しめる煮込み具合で、玉ねぎも火こそ通ってはいれど、飴色には程遠いシャキシャキした歯応えだ。
米は炊き立てのぴかぴかで、カレーがさっぱりとしている分、お米本来の甘さとしっとりした食感がしっかりと味わえる。味は優しい中辛。
サラダも盛り付けてすぐの味がした。
急いで作った。けれど精一杯できる限り、『きちんとした』食卓を作ったカレー。
「こんばんは。私が店長(マスター)です。ようこそマヨイガ食堂に」
低い柔らかな声が聞こえて、ハッとする。
見上げると、長い髪を後ろに一つに括った若い男性が立っていた。
バーテンダーのように白いシャツと黒いベストを纏った男性だ。
髪は白髪ーーではない。
不思議な銀髪のアシンメトリーの髪型をした、佇まいが美しい男性だ。
「あ……こんばんは。初めまして」
唇が弧を描き、男性はゆったりと微笑む。私も釣られるように会釈した。
芸能人のような、動画SNSに出てくる加工を施した美形のような、不思議な男性だった。ーーけれど奇妙に感じないのは、店がどこか非日常の雰囲気を漂わせているからなのか。
「短い時間で手早く作ったものなので、味は染み込んでませんが。どうですか?」
だからなのか、私は彼の問いかけにーー自然と、心のままに思ったことを口に出していた。
「そうですね。……煮込んでわかりやすく手が込んだ、凝ったカレーも好きですけど……カレーってなんだかんだ、どんなカレーもカレーですよね。市販のルーそのまんまって感じの味で、特に凝ったこともしていないのでも……美味しい、ですね」
私はこのカレーの味に覚えがあった。
「……このカレー、私、ずっと好きだったものに似ています。……母のカレーに」
一年前、急の病で呆気なく亡くなった母を思い出す。
私の母は、まだまだ兼業主婦の肩身が狭い時代だった頃の兼業主婦だった。
「母はずっとフルタイムで働いている人でした。けれど……母の時代はまだまだ、働きながら家庭を持つって社会も父親も、みんな理解してくれない時代で……」
仕事から帰って、父がごろ寝をしてテレビのナイター中継を見るところで、大急ぎで作ってくれるカレー。
米だけは朝炊飯予約ができるけれど、煮込むカレーなんて作れない。
レトルトのカレーでもいいのに、帰宅して、すぐに作ってくれたカレー。
「思春期の頃、私それがすごく嫌だったんです。疲れて帰ってきて、野菜をわざわざ切って煮込んで、手料理なんて作らなくていいよって。……愛情が重たくて。手伝うのもなんだか、面倒で」
父は私に勉強をさせず、進学もさせないつもりだった。
それでも母は父を無視して、私の学費を稼ぎ、料理まで作ってくれた。
「なんだかすごく『借り』があるような気がして嫌で、私も拗ねながら料理を手伝ってたんです。二人で並んでいると父も『いい嫁になるな』って機嫌が良くなるから、面倒じゃなくて。……でも、母は私にいつも言っていたんです。…………勉強は必ずしなさい、立派になりなさい、って……」
ーー私はカレーを口にする。
母は私に、同じ思いをさせたくなかったのだろう。
ーー私がなぜ仕事を必死にするのか。
家事と仕事を必死で頑張って、育ててくれた母に報いたかった。
「お母さんが……仕事で悔しい思いしながらも……私を頑張って育ててくれたから……それは、正しいことだったんだよ、絶対間違ってなかったんだよって、言いたくて……」
母は何かにつけて言われていた。
仕事をして娘を大事にしていないからよくない、と。
仕事を優先にして派手にしているからよくない、と。
母は呪いの言葉を振り払うためのように、できる限りお惣菜には頼らず、必死に手料理を作ってくれていた。
煮込んだ祖母の料理とは違う、すっきりとした味で、優しいカレー。
ーー主婦で、母で、社会人で。
当時の定石の生き方をしていない母は必死だった。
「お母さんだって大変だったのに……だから無理がたたって……」
母としての戦場と、社会人としての戦場で戦っていた母の味。
母は販売員として男性社員に負けないくらい必死に働いていたけれど、彼女の売り上げは上司の成績になり、彼女はいつまでも、上司の出世の道具でしかなかった。正社員にいつかしてあげる、の言葉でずっと頑張り続けて、最終的には体を壊して、定年後すぐにーー。
母の何が悪かったんだ。何も悪くない。母はただ、必死に生きていた。
私はカレーの味と『思い出』に夢中になって、そこにマスターがいるのも忘れて口にしていた。
「……だから私は……就職して、女性でも管理職になれるスタートアップしたての会社に入ったんだ……思い出した……」
就職の時、私が真っ先に考えたのは女であることが不利にならない会社に勤めることだった。その中で私は会社の気風が若い、若い社長の会社に入った。
ブラックといえばブラックだ。
けれどどんな安定した大企業だと言っても、私がほしいのは仕事の成果。
とにかく私が母の代わりに、社会的な成功を掴みたかった。
「ご立派なお母様だったのですね」
「はい。自慢の母です」
私は目頭を拭い、男性に頷いて返す。
そしてこれ以上泣かないように、私はカレーに話題を切り替えた。
「でも、びっくりしました。煮込まなくてもカレーって意外と美味しいんですね」
子供の時はもちろん、カレーは美味しいと思って食べていた。
けれど大人になって食べても、あまり煮込まないさらっとしたカレーは意外と美味しく感じられた。流し込むように食べるのではなく、しっかり噛んで野菜の味を味わって食べるのが、新鮮だった。
男性は銀髪を揺らして頷く。
「ええ。煮込んだから美味しいってよく言いますけど、素材の味は煮込まない方がむしろしっかり残るから、あえて煮込みすぎない調理法を選ぶ人もいるんですよ」
「へえ……」
「煮込んでとろとろのカレーが美味しいからって、反対のさらっと火を通した素材の味が残ったカレーが美味しくない理由にはならないんですよ。せっかく色んなカレーの作り方があるのだから、美味しいならどれでもいいんです」
「そうですね。……具材の色も鮮やかだし、なんか可愛い」
掬い上げたごろごろのにんじんは鮮やかな朱色を保っていて、ジャガイモは白くて、玉ねぎも透き通って存在を主張している。
「誰もが当たり前に受け入れる『定番』だけが全てではありません」
マスターは言う。
「お母様のやり方は、当時は珍しい母親像、育児のやり方だったかもしれません。けれどだからって、成長したあなたは立派にお母様から大切なものを受け取って大人になられた。……とろとろのカレーじゃなくても、シャッキリしたカレーからもお客様は幸せでしたよね」
目を細め、彼は微笑んだ。
「もちろん、とろとろのカレーが『定番』だと思う方も多いでしょう。けれど『定番』なんて、意外と全てではありません……知っていましたか? 知っていましたか? カレールウも最初は甘いものを作ろうとして大反対を受けたのです」
「そうなんですか? カレーって昔から子供が好きなものじゃ……」
「ええ。実は違ったんです。けれど今では……カレーといえば子供が好きなものの代名詞。型破りな甘いカレーが『定番』を変えたんです」
「そうですね……そっか、母が子供の私にカレーを作ってくれていたのも……ずっと前に誰かが、甘いカレーという『定番』を作ってくれたからだったんですね……」
カレーを食べながら思う。
母は働く女性の生き方を、兼業主婦生き方を必死で作っていった人。
今では結婚して仕事を辞める方が、逆に珍しい世の中になった。
定番は変わっていく。
私だって社会人として、悔しいことだっていっぱいある。
けれどーーお客様の求める『定番』じゃない私だからできることも、きっとある。
……私は、『定番』じゃないからって、負けたくない。
今はお客さんにも上司にも、まだ自分では力不足だと思われるかもしれないけれど。
「私が良いものだって、認めてもらうためには……行動するしかない…」
すっきりとした甘口のルーと、歯応えのある野菜の味が残った具材。
さらっとした煮込みでカレーの味の主張が薄いから、米の甘さが引き立つようだ。カレーの添え物としての野菜と米。ーー違う。カレーも野菜も米も、みんな美味しい。主張が強い。賑やかだ。
それを「味が馴染んでいない」と思うか、一つ一つの味が引き立っていると感じるかどうか。私はーー
「……ごちそうさまでした」
「綺麗にありがとうございます」
マスターはにこりと微笑んで、食後のホットティーを入れてくれる。
私は小さなカップを両手で包んで飲みながら、味わうように目を閉じた。
ーー頑張ろう。
頑張ったからって報われるとは限らないけれど。少なくとも私の経験になる。
経験がいずれ、定番じゃない、ありきたりじゃない新鮮な私の『味』を作る。
むしろああいうおじさんが、面と向かってどんな顔をするのか見てみたい。
おじさんの攻略法の一ページとして、上手に使わせてもらおう。
そう落ち着いてくると、なんだかぐちゃぐちゃだった気持ちが冷静なってきた。女だから舐められて悔しい気持ちと、クレーマーをヒートアップさせすぎた失敗は違うし。
そもそもパートさんが怒らせすぎる前に、今度からはもう少しチェックを変えてみよう。私一人の試行錯誤ではどうしようもないことは、悩みすぎても仕方ない。美味しいご飯を食べて寝て、忘れようーー煮込みすぎたからって、美味しくなるとは限らないんだから。
「すみません、お勘定お願いします。あとこの近くにこれから泊まれそうなホテルってありますか? ……最悪ネットカフェでもいいんですが……」
「必要ありませんよ、お代もいただいております」
「え」
ーー気がつけば私は、終電の中に座っていた。
「次は、ーー、次は……」
プシュウ、と扉が開く音と停車メロディ。
私ははっと顔をあげる。
ぞろぞろとホームへと降りていく人の流れに慌ててついて行き、見慣れたホームでため息をついた。
「……あれ、夢だったのかな」
変な駅に停まって、変な廃墟の街に行って。可愛い女の子と、綺麗な店長さんとお話ししてーー。
胸ポケットに何かが入っている。
触れたものを出すと、そこには磨き上げられたカレースプーンが入っていた。
「夢じゃなかった……」
私は駅が閉まる前に、慌ててホームから改札に出た。
家までの道のりは、見慣れたいつもの道のりだった。
◇◇◇
ーー翌日朝から、私宛に電話がかかってきた。昨日のお客さんだ。
おっかなびっくり通話ボタンを押してみると、打って変わって申し訳なさそうな声が聞こえてきた。
「ごめんな、昨日は。あんなに遅くまで働いているあんたの気持ちも考えなさいって、娘に怒られちまったんだ。そりゃあ確かに俺だって定年前は部下の無茶苦茶なミスに振り回されて嫌な思いたくさんしたのに、あんたに同じ思いさせちまうなんてな、いやあ、悪かった」
後ろから娘らしき声が、「早く謝って切ってあげなさいよ!」と叫んでいる。
急に、電話越しの『クレームのお客様』が、ただの一人のおじいさんに変わったような気がした。
ーー相手も冷静になった後にきっと、こちらが『迷惑な電話の上司』以外に感じたのだろう。
私は深く頭を下げながら答えた。
「とんでもございません。こちらの不手際のためにお客さまにご不快な思いをさせてしまいました。直接お詫びに伺うようにしていましたが」
「いやいやいや! 来なくていいよ、すまないね! いやあ、よく考えたらね、腹が立つならすぐにガチャンって切りゃいいのさ、こっちが。それなのに延々と罵倒しちまってね。それでいて『こんな遅くまで働いてりゃあ男も云々』なんて、悪いこと言っちまったよ。本当に悪かった!」
コーヒーを淹れていた同僚の常盤がこちらを見て、グッと親指を立ててくれる。
たとえどんなクレームでも、こちらが丁寧に納得してくれたらうまくいくこともある。
「あんたしっかりやりなよ。応援してるからさ。あんたの誠意、ちゃんと通じたよ」
電話が切れたのち、私は清々しい思いでコーヒーを口にした。
常盤がいつものように気安く声をかけてくる。
「みのりさん、やったじゃん」
「まあね。あんたに頼らなくて済みそう」
「だと思ったんだよね〜。上長が心配しすぎだっての。みのりさん強いんだから」
強い。その言葉が誇らしい。
「知ってた? 俺の同行って、別にみのりさんに落ち度があるからじゃないんだよ」
「えっ……そうなの?」
「うん。みのりさん、柔らかく相手を立てつつも、しっかり毅然と相手に折れないでしょ? そのやり方がすごく上手いから同行して学んでこいって支店長は言ってたんだよ」
初めて聞いた。私はぽかんとしている。
「俺ってすみませんでした! ってストレートに謝るか、こっちが悪くてもゴリ押しで笑顔でなあなあで押し通す感じじゃん? そういうやり方じゃ太刀打ちできない相手も出てくるから、あの手この手で相手を黙らせるみのりさんの手腕、しっかり見とけってさ」
「そんな風に思われてるなんて知らなかったわ……だって支店長、私よりあなたのことを評価してるって感じだし」
「あー。それってほら、うちの会社昔、先輩がパートさんとセクハラ問題で大騒動になったらしいじゃん。それで、女性社員にはどう接していいのか支店長結構ビクビクしてるっぽくて」
「……知らなかった」
「褒め方失敗したら、みのりさんはガツンとしっかり訴えそうじゃん」
私は思わず吹き出した。
「私、そんな風に見える!?」
「見える見える。かっこいーもん、強くてさ」
意外な反応だった。
私は微笑みながらふと思い出し、上着のポケットからスプーンを取り出し、マグカップのコーヒーをくるくると混ぜた。スプーンのは可愛らしい文字で店名が描かれていた。
「……『おつかれさまのマヨイガ食堂』、か」
あれは夢だったのだろうか。疲れたあまり、道を間違えて入り込んでしまった場所なのだろうか。
なんとなくもう二度といける気がしない。
けれどこのスプーンがあるあいだはーー私まだ、頑張れる気がした。
◇◇◇
「なるほど、兼業主婦の作った、煮込んでいないカレーの思い出……確かにそれはこれまでの『思い出』にありませんでしたね」
ーー閉店後の食堂にて。
店長は女中と一緒に席につき、二人でカレーを実食していた。
「ん〜! 牛肉と白米のカレーライスはやっぱり最高ですねっ!」
頬に手を添え、女中姿の娘がたまらないといった顔をする。
「うちの生きとった時代には、カレーなんて鯨肉がみじん切りでこま〜く入っとるだけでしたもんねえ。くっさい肉の臭い消しのためにカレーにしとったって感じでしたし。米も玄米で。しかも女中のうちなんて食べられんし。カレー粉炒めて、作って匂いだけで『は〜! 美味しかろな〜!』って想像で味わうだけで、あとは旦那様がたがぺろりたいらげて。……はあ、美味しいなあ」
「『うちが生きとった』って、あなた大往生したでしょう、100歳超えて」
「へへ。遣いになって娘の姿になったら、この年頃の気分になるもんですよ、神様」
女中姿の娘はにっこりと笑う。
向かいの店長はいつの間にか、銀髪から大きな狐耳を生やし、ベストのセンターベンツから長いふさふさとしたしっぽを出していた。
「……今日もこうして『思い出』と『感謝』をいただいたので、またしばらくはここを営めそうですね」
唇をペロリと舐め、店長の狐は窓の外を見る。
窓の外には賑やかなアーケード街の景色が写っている。
ーー戦後日本の好景気。
もはや戦後ではないーー華やかな装いに身を包んだ女性たちに、元気に駆け回るたくさんの子供達と、割烹着を着て買い物に向かう女たち。夜の街に笑顔で向かう、力仕事でくたびれた様子の男たちの背中。
日本全国で当たり前のようにみられた、人々の営み。
その記憶たちがないまぜになり、この異界の地で永遠となっている。
店長が一つ一つ集めた『人の幸福な記憶』の集合体だ。
人口減少社会。日本各地、さまざまな土地からは人が消え、思い出が消え、記録にすら残らない過去を伝承する人も、文化も全て失われてしまう。日常生活の記録なんてあっという間に消えていく。
店長は人々の心から消えた「失われし場所」に住んでいる。
そこは古くは隠世ともマヨイガとも呼ばれ、今は怪異として人々にまことしやかに噂されている場所。
全国各地の鉄道から、どこからともなく連れて行かれるどこか。
そして店長は人々の『思い出』に触れ、対価として思い出の味を差し出している。
カレーを一口、口にする。
バーテンダーの瞼の裏に、カレーを一緒に作る幸せそうな母娘の姿が映る。
『ごめんね、お母さんあまり料理得意じゃないから』
『そう? 美味しいじゃんカレー。早く食べちゃおうよ、一緒にさ』
『……ふふ、そうね』
少しだけ煮込んだカレーの火を止め、ナイター中継を見たまま寝てしまった父を起こさないようにそっと二人で食べたカレー。
仕事を持つ母の、化粧の匂いが好きだった。
友達のお母さんたちとは違う、ハイヒールでカツカツと歩く背中が好きだった。
ーーそんな母が、申し訳なく思う必要なんてない。
私だって、お母さんみたいになりたい。
「……すでに幼い頃から、同志だったのですね、お二人は」
「ねえマスター、うちおかわりしていい?」
「いいですよ、組さん。お腹いっぱいになってまたあなたの100年の『思い出』も聞かせてくださいね」
「勿論ですよ〜!」
組と呼ばれた女中はいそいそと空の皿を持って奥へと入る。
狐はカレーをまた一口味わいながら、ふっと一人呟いた。
「農耕神だった時代から、御食津神の眷属を経て……立場は変われども、ニンゲンの心はやはり、食の幸福と共にあるのだと常々感じますね」
その時。
ーージジ、と羽音のような音を立て、窓の外の景色が変化する。
「また迷い子が来ますか。次はどんな……『思い出』を供えてくださるのでしょうね」
『ごちそうさまでした、良き思い出、忘れられし追憶を』
電話が切れると同時に、誰もいない夜のオフィスで涙が溢れた。
ーーなんで私、こんなに頑張ってるんだろう。
耳の奥までガンガンと、クレームの怒鳴り声が染み付いて離れない。
席についたままパートさんたちや同僚の前で泣くわけにはいかなくて、唇を噛み締めて、傾聴に徹した午後23時。
終電にはぎりぎり間に合う時間だ。
ーー健康食品の通販会社、そのコールセンター部門のCV。
いわゆるいわゆる電話口に出るオペレーターの向こうにいる「上の人」が私だ。今日は私の管理する架電チームのパートの一人が、退勤寸前の20時45分に大クレームを起こした。ただのフォローアップコールに対して一時間も延々と罵倒され続けたパートさんも可哀想だが、彼女が電話口で泣きながら客に言い返してしまったのだから、たまったもんじゃない。
上司として大クレームを引き継いだ私が、その後延々とクレームを聴き続ける羽目になった。
電話の向こうのおじさんは、音が割れる音量で喚き散らす。
「俺は上司に代わってくれって言ったんだ。なんであんたが出てくるの」
「こんな時間まで仕事して、あれかい? どうせ男もいないんだろ」
「……申し訳ございません。全て私が至らないばかりに、不手際を招きお客様にこんな遅い時間までご迷惑をおかけしております」
「ふん、まったくだよ」
客に言い返してしまったパートさん、彼女の上司である私に当然落ち度がある。
ただただ声色を申し訳なさそうにして、平謝りして怒りが収まるのを待つしかない。
上司として私は、ただただ相手が納得するまで謝罪を続け、相手の落とし所を探るのが仕事。パートは泣きながら周りによしよしと宥められながら帰り、同僚たちは苦笑いで私の机に飴を置いて去っていく。
ーーSVは体力勝負の仕事だ。
自分より一回り以上年上のパート女性の管理と指導。指示書の作成に売上データ報告、営業報告に卸売業者とのやりとり。悪い意味でフレックスタイム、みなし残業、土日休みなんてもってのほかーーその代わり給料だけはまともなのが救いだ。
その給料も病気やストレス解消の散財で消える人が多いのが実情だけど。
女性社員はそこそこ入社してくるし、全社で見れば管理職にだっている。けれど当事業部には今のところ、正社員の女性は私しかいない。
事務業務は契約社員の人ばかりで、男性社員は時々そこで彼女を捕まえて結婚している。
「……うそ」
社内チャットに業務日報を送信したところで、入れ替わりに支店長からのチャットが届く。アポを取って常盤と一緒に直接謝罪に行くこと。
ーー常盤は、私と同期入社の男だ。
多少客にタメ口を使っても許されるような明るい調子と体育会系育ちのパワーで、私よりも成績が悪くても妙に気に入られて、私よりずっと社内の評価が高い気がする。私は心を無にして返信をタイプしながら、無力感を感じていた。
ーー常盤、私より先に出世するんだろうな。
支店長が常盤を連れて行けといったのは、私だけでは収められないと思ったからだろう。クレーム客のお爺さんはきっと、私と彼が並んだ時、彼を謝罪の『本命』だと思って接するだろう。
女でクレームを引き起こした私はきっと、空気になる。
それなら責任持って、12時間私が罵倒される方がまだマシだ。心が。
「はー……私も転職しようかな……」
鍵をかけながら、独り言にしては大きめの声で呟く。
ーー髪もぼろぼろ。服だって毎日ルーティーンで同じのしか着ていない。
これだけ頑張って仕事をしても、私は男性社員の常盤よりも評価されない。
ーーなんでこんなに努力してるんだろう。無意味、なのに。
◇◇◇
滑り込んだ最終電車。
連休中日の夜なんて、誰も乗っちゃいない。
私がぐったりとしていると、気がついたら知らない駅で電車が止まっていた。
「うそ、終点……?」
私が呆然と電車を降りると、そこは真っ暗だった。
誰もいない。照明も私がいる場所と、改札しか灯っていない。蛾の一匹すらいない無音の空間に、私は怖くて一気に目が覚めた。
「駅員さんもいないの……? む、無人駅なんてあったっけ……」
肩にかけたビジネスバッグの持ち手をギュッと握り締め、そろりそろりと駅の階段をおりる。
駅は廃墟に近くて、壁に貼られたポスターも妙に古くて見覚えのないものばかり。改札には誰もいなくて、自動改札すらない。出る時音が鳴って誰かが来てくれることを祈ったけれど、響くのはパンプスが床を踏みしめる音だけだった。
駅の外は真っ暗で、目の前には廃墟の商店街が広がっていた。
ーー怖い。
悲鳴を押し殺す。草がぼうぼうに生えていて、アーケード街らしきものはボロボロ。真っ暗なゲームセンターの壊れたネオンが、月明かりに死んだ魚の目のような色で照らし出されている。
「ここ、どこ……うそ……」
スマートフォンは充電が切れている。
「う、嘘でしょ? こんなことって……待ってよ」
野宿しかないのだろうか。ただただ怖い。
見上げると空が妙に明るくて、星がいっぱいに輝いているのがますます不気味だ。空が華やかだからこそそ廃墟の真っ暗が余計に墨で塗りつぶした大きな化け物のようだ。
「だ、誰かいますか……?」
泣きたい気持ちを抑えて一歩一歩、私は商店街の方へと向かう。
頭の隅に、ネットで流布した都市伝説が過ぎる。
ーーある女性が日常的に乗っている電車で、見知らぬ異界の駅に迷い込んだ話。
どこまで行っても人がいなくて、不思議な駅で迷子になったまま連絡が途絶えて。
私もついにあの都市伝説の仲間入りをしたのだろうか。
冗談じゃない。もう27歳で、社会人で、アラサーで。
都市伝説なんて信じてきゃあきゃあ言えるような歳でもないのに。
私はむしろ自分の正気を疑い始めた。疲れて幻覚が見えるようになったのかもしれないーー
その時。
廃墟のアーケード街の奥の方に、あたたかな明るい店の明かりが覗いているのに気づいた。飲み屋だろうか、食堂だろうか。暖色の明るい光に思わず駆け寄る。
表には『食堂』の大きな二文字が描かれたサイン看板が淡い光を放っている。
「よかった……」
私はほっと肩の力を抜いた。よかった、とにかく誰かいる。
私はパンプスを鳴らしてそこまで早足で向かう。一度も入ったことのないお店に一人で入るなんてちょっと勇気がいるけれど、廃墟のアーケードに佇んでいることの方がよっぽど怖かった。
そのお店は磨き上げられた木製の古風な外装をしていた。
店の中はマホガニーの調度品で整えられ、落ち着いた懐かしい洋食屋、個人のレストランといった風情だ。天井には暖色のシャンデリアが輝き、テーブルには糊のきいたテーブルクロスがかけられている。深夜とは思えないホッとする雰囲気に拍子抜けする。
どうやら誰もいないようだが、奥の方で白いエプロンと女の子の後ろ姿が揺れた。女の子を見ると、急に心が安らいできたのを感じた。
私はドアを開く。ドアベルがカラカラと大きく鳴り響く。
ーー店内には、甘いカレーの匂いが広がっていた。
「いらっしゃいませ!」
奥から先ほど見えたウエイトレスさんが現れた。和服にこれまた糊のきいたエプロンを纏った、明治ドラマの「女中さん」といった感じの女の子だ。真っ黒なおさげ髪を二つに結って、まるで朝の連続テレビドラマから飛び出したような姿だ。
「いらっしゃいませ、お好きなお席にどうぞ」
にっこりと笑う。
明らかに十代のように見える。就業規則的に問題はないのか気になるけれど、今はつっこみを入れる元気もない。私は窓辺の四人掛けの席に腰を下ろす。
革張りのソファが心地よく軋む。テーブルには生花が飾られていて綺麗だ。
さっとお冷とメニューを出される。
そこには『思い出』とだけ書かれていた。
「……思い出?」
読み上げた私に、ピカピカのトレイを持った女の子が答える。
「ふふ、今日はカレーですよ。すぐにご準備しますね」
「ありがとう」
こちらの注文を聞いて用意する店ではなく、入ったらもう有無を言わさずメニューが決まっているタイプのお店らしい。
定番定食や今日の日替わりしかない、個人店らしいやり方だ。
けれど今日は何か注文を考えてお願いする元気はない。
女の子が奥に「カレーおねがいしまーす!」と入っていく声を聞きながら、私はそっと水に口をつけた。
カレーの匂いはいかにも洋食屋といった匂いではなく、どこか嗅ぎ覚えのある匂いだ。煮込みすぎていない家庭のカレーの匂いって、確かこんな感じだった気がする。メニューが一種類なのに珍しい、と思う。夜から営業だとしても、大抵のお店のカレーは大鍋でつくられ、しっかり煮込まれているはずだ。
「お待たせしました!」
真っ白なテーブルクロスの上に出されたのは、カレーとサラダのセットだ。
サラダは千切りキャベツにスライスしたきゅうり、プチトマトにマヨネーズがかけられて。丸く添えられたポテトサラダはいかにも市販のもの、といったものだ。
真っ白なカレー皿に盛られたカレーは、綺麗に半分にご飯とカレーが分けられたもので、具はほとんど溶けていない。真っ白く輝く炊き立てのご飯と同じくらいこんもりごろごろ、ジャガイモやにんじん、玉ねぎ、グリーンピース、コーンが強く主張している。
まるで子供が「カレーを食べたい!」と思ったら想像するカレーという感じだ。
「いただきます」
見ていると急にお腹が空いてきた。
私は手を合わせ、陶器製の可愛い持ち手のフォークでカレーをすくう。
口に入れると懐かしい、カレーらしい味が口の中に広がった。
ーーひと煮立ちだけの、ルーに練り込まれたスパイスがはっきりとしたカレー。
ジャガイモは事前にレンジで火を通して時短で調理された、鋭角がはっきりとしたもの。噛んで断面を見てみると、カレーが染み込まないジャガイモ本来のほくほくとした色が覗く。にんじんも本来の甘さと歯応えを楽しめる煮込み具合で、玉ねぎも火こそ通ってはいれど、飴色には程遠いシャキシャキした歯応えだ。
米は炊き立てのぴかぴかで、カレーがさっぱりとしている分、お米本来の甘さとしっとりした食感がしっかりと味わえる。味は優しい中辛。
サラダも盛り付けてすぐの味がした。
急いで作った。けれど精一杯できる限り、『きちんとした』食卓を作ったカレー。
「こんばんは。私が店長(マスター)です。ようこそマヨイガ食堂に」
低い柔らかな声が聞こえて、ハッとする。
見上げると、長い髪を後ろに一つに括った若い男性が立っていた。
バーテンダーのように白いシャツと黒いベストを纏った男性だ。
髪は白髪ーーではない。
不思議な銀髪のアシンメトリーの髪型をした、佇まいが美しい男性だ。
「あ……こんばんは。初めまして」
唇が弧を描き、男性はゆったりと微笑む。私も釣られるように会釈した。
芸能人のような、動画SNSに出てくる加工を施した美形のような、不思議な男性だった。ーーけれど奇妙に感じないのは、店がどこか非日常の雰囲気を漂わせているからなのか。
「短い時間で手早く作ったものなので、味は染み込んでませんが。どうですか?」
だからなのか、私は彼の問いかけにーー自然と、心のままに思ったことを口に出していた。
「そうですね。……煮込んでわかりやすく手が込んだ、凝ったカレーも好きですけど……カレーってなんだかんだ、どんなカレーもカレーですよね。市販のルーそのまんまって感じの味で、特に凝ったこともしていないのでも……美味しい、ですね」
私はこのカレーの味に覚えがあった。
「……このカレー、私、ずっと好きだったものに似ています。……母のカレーに」
一年前、急の病で呆気なく亡くなった母を思い出す。
私の母は、まだまだ兼業主婦の肩身が狭い時代だった頃の兼業主婦だった。
「母はずっとフルタイムで働いている人でした。けれど……母の時代はまだまだ、働きながら家庭を持つって社会も父親も、みんな理解してくれない時代で……」
仕事から帰って、父がごろ寝をしてテレビのナイター中継を見るところで、大急ぎで作ってくれるカレー。
米だけは朝炊飯予約ができるけれど、煮込むカレーなんて作れない。
レトルトのカレーでもいいのに、帰宅して、すぐに作ってくれたカレー。
「思春期の頃、私それがすごく嫌だったんです。疲れて帰ってきて、野菜をわざわざ切って煮込んで、手料理なんて作らなくていいよって。……愛情が重たくて。手伝うのもなんだか、面倒で」
父は私に勉強をさせず、進学もさせないつもりだった。
それでも母は父を無視して、私の学費を稼ぎ、料理まで作ってくれた。
「なんだかすごく『借り』があるような気がして嫌で、私も拗ねながら料理を手伝ってたんです。二人で並んでいると父も『いい嫁になるな』って機嫌が良くなるから、面倒じゃなくて。……でも、母は私にいつも言っていたんです。…………勉強は必ずしなさい、立派になりなさい、って……」
ーー私はカレーを口にする。
母は私に、同じ思いをさせたくなかったのだろう。
ーー私がなぜ仕事を必死にするのか。
家事と仕事を必死で頑張って、育ててくれた母に報いたかった。
「お母さんが……仕事で悔しい思いしながらも……私を頑張って育ててくれたから……それは、正しいことだったんだよ、絶対間違ってなかったんだよって、言いたくて……」
母は何かにつけて言われていた。
仕事をして娘を大事にしていないからよくない、と。
仕事を優先にして派手にしているからよくない、と。
母は呪いの言葉を振り払うためのように、できる限りお惣菜には頼らず、必死に手料理を作ってくれていた。
煮込んだ祖母の料理とは違う、すっきりとした味で、優しいカレー。
ーー主婦で、母で、社会人で。
当時の定石の生き方をしていない母は必死だった。
「お母さんだって大変だったのに……だから無理がたたって……」
母としての戦場と、社会人としての戦場で戦っていた母の味。
母は販売員として男性社員に負けないくらい必死に働いていたけれど、彼女の売り上げは上司の成績になり、彼女はいつまでも、上司の出世の道具でしかなかった。正社員にいつかしてあげる、の言葉でずっと頑張り続けて、最終的には体を壊して、定年後すぐにーー。
母の何が悪かったんだ。何も悪くない。母はただ、必死に生きていた。
私はカレーの味と『思い出』に夢中になって、そこにマスターがいるのも忘れて口にしていた。
「……だから私は……就職して、女性でも管理職になれるスタートアップしたての会社に入ったんだ……思い出した……」
就職の時、私が真っ先に考えたのは女であることが不利にならない会社に勤めることだった。その中で私は会社の気風が若い、若い社長の会社に入った。
ブラックといえばブラックだ。
けれどどんな安定した大企業だと言っても、私がほしいのは仕事の成果。
とにかく私が母の代わりに、社会的な成功を掴みたかった。
「ご立派なお母様だったのですね」
「はい。自慢の母です」
私は目頭を拭い、男性に頷いて返す。
そしてこれ以上泣かないように、私はカレーに話題を切り替えた。
「でも、びっくりしました。煮込まなくてもカレーって意外と美味しいんですね」
子供の時はもちろん、カレーは美味しいと思って食べていた。
けれど大人になって食べても、あまり煮込まないさらっとしたカレーは意外と美味しく感じられた。流し込むように食べるのではなく、しっかり噛んで野菜の味を味わって食べるのが、新鮮だった。
男性は銀髪を揺らして頷く。
「ええ。煮込んだから美味しいってよく言いますけど、素材の味は煮込まない方がむしろしっかり残るから、あえて煮込みすぎない調理法を選ぶ人もいるんですよ」
「へえ……」
「煮込んでとろとろのカレーが美味しいからって、反対のさらっと火を通した素材の味が残ったカレーが美味しくない理由にはならないんですよ。せっかく色んなカレーの作り方があるのだから、美味しいならどれでもいいんです」
「そうですね。……具材の色も鮮やかだし、なんか可愛い」
掬い上げたごろごろのにんじんは鮮やかな朱色を保っていて、ジャガイモは白くて、玉ねぎも透き通って存在を主張している。
「誰もが当たり前に受け入れる『定番』だけが全てではありません」
マスターは言う。
「お母様のやり方は、当時は珍しい母親像、育児のやり方だったかもしれません。けれどだからって、成長したあなたは立派にお母様から大切なものを受け取って大人になられた。……とろとろのカレーじゃなくても、シャッキリしたカレーからもお客様は幸せでしたよね」
目を細め、彼は微笑んだ。
「もちろん、とろとろのカレーが『定番』だと思う方も多いでしょう。けれど『定番』なんて、意外と全てではありません……知っていましたか? 知っていましたか? カレールウも最初は甘いものを作ろうとして大反対を受けたのです」
「そうなんですか? カレーって昔から子供が好きなものじゃ……」
「ええ。実は違ったんです。けれど今では……カレーといえば子供が好きなものの代名詞。型破りな甘いカレーが『定番』を変えたんです」
「そうですね……そっか、母が子供の私にカレーを作ってくれていたのも……ずっと前に誰かが、甘いカレーという『定番』を作ってくれたからだったんですね……」
カレーを食べながら思う。
母は働く女性の生き方を、兼業主婦生き方を必死で作っていった人。
今では結婚して仕事を辞める方が、逆に珍しい世の中になった。
定番は変わっていく。
私だって社会人として、悔しいことだっていっぱいある。
けれどーーお客様の求める『定番』じゃない私だからできることも、きっとある。
……私は、『定番』じゃないからって、負けたくない。
今はお客さんにも上司にも、まだ自分では力不足だと思われるかもしれないけれど。
「私が良いものだって、認めてもらうためには……行動するしかない…」
すっきりとした甘口のルーと、歯応えのある野菜の味が残った具材。
さらっとした煮込みでカレーの味の主張が薄いから、米の甘さが引き立つようだ。カレーの添え物としての野菜と米。ーー違う。カレーも野菜も米も、みんな美味しい。主張が強い。賑やかだ。
それを「味が馴染んでいない」と思うか、一つ一つの味が引き立っていると感じるかどうか。私はーー
「……ごちそうさまでした」
「綺麗にありがとうございます」
マスターはにこりと微笑んで、食後のホットティーを入れてくれる。
私は小さなカップを両手で包んで飲みながら、味わうように目を閉じた。
ーー頑張ろう。
頑張ったからって報われるとは限らないけれど。少なくとも私の経験になる。
経験がいずれ、定番じゃない、ありきたりじゃない新鮮な私の『味』を作る。
むしろああいうおじさんが、面と向かってどんな顔をするのか見てみたい。
おじさんの攻略法の一ページとして、上手に使わせてもらおう。
そう落ち着いてくると、なんだかぐちゃぐちゃだった気持ちが冷静なってきた。女だから舐められて悔しい気持ちと、クレーマーをヒートアップさせすぎた失敗は違うし。
そもそもパートさんが怒らせすぎる前に、今度からはもう少しチェックを変えてみよう。私一人の試行錯誤ではどうしようもないことは、悩みすぎても仕方ない。美味しいご飯を食べて寝て、忘れようーー煮込みすぎたからって、美味しくなるとは限らないんだから。
「すみません、お勘定お願いします。あとこの近くにこれから泊まれそうなホテルってありますか? ……最悪ネットカフェでもいいんですが……」
「必要ありませんよ、お代もいただいております」
「え」
ーー気がつけば私は、終電の中に座っていた。
「次は、ーー、次は……」
プシュウ、と扉が開く音と停車メロディ。
私ははっと顔をあげる。
ぞろぞろとホームへと降りていく人の流れに慌ててついて行き、見慣れたホームでため息をついた。
「……あれ、夢だったのかな」
変な駅に停まって、変な廃墟の街に行って。可愛い女の子と、綺麗な店長さんとお話ししてーー。
胸ポケットに何かが入っている。
触れたものを出すと、そこには磨き上げられたカレースプーンが入っていた。
「夢じゃなかった……」
私は駅が閉まる前に、慌ててホームから改札に出た。
家までの道のりは、見慣れたいつもの道のりだった。
◇◇◇
ーー翌日朝から、私宛に電話がかかってきた。昨日のお客さんだ。
おっかなびっくり通話ボタンを押してみると、打って変わって申し訳なさそうな声が聞こえてきた。
「ごめんな、昨日は。あんなに遅くまで働いているあんたの気持ちも考えなさいって、娘に怒られちまったんだ。そりゃあ確かに俺だって定年前は部下の無茶苦茶なミスに振り回されて嫌な思いたくさんしたのに、あんたに同じ思いさせちまうなんてな、いやあ、悪かった」
後ろから娘らしき声が、「早く謝って切ってあげなさいよ!」と叫んでいる。
急に、電話越しの『クレームのお客様』が、ただの一人のおじいさんに変わったような気がした。
ーー相手も冷静になった後にきっと、こちらが『迷惑な電話の上司』以外に感じたのだろう。
私は深く頭を下げながら答えた。
「とんでもございません。こちらの不手際のためにお客さまにご不快な思いをさせてしまいました。直接お詫びに伺うようにしていましたが」
「いやいやいや! 来なくていいよ、すまないね! いやあ、よく考えたらね、腹が立つならすぐにガチャンって切りゃいいのさ、こっちが。それなのに延々と罵倒しちまってね。それでいて『こんな遅くまで働いてりゃあ男も云々』なんて、悪いこと言っちまったよ。本当に悪かった!」
コーヒーを淹れていた同僚の常盤がこちらを見て、グッと親指を立ててくれる。
たとえどんなクレームでも、こちらが丁寧に納得してくれたらうまくいくこともある。
「あんたしっかりやりなよ。応援してるからさ。あんたの誠意、ちゃんと通じたよ」
電話が切れたのち、私は清々しい思いでコーヒーを口にした。
常盤がいつものように気安く声をかけてくる。
「みのりさん、やったじゃん」
「まあね。あんたに頼らなくて済みそう」
「だと思ったんだよね〜。上長が心配しすぎだっての。みのりさん強いんだから」
強い。その言葉が誇らしい。
「知ってた? 俺の同行って、別にみのりさんに落ち度があるからじゃないんだよ」
「えっ……そうなの?」
「うん。みのりさん、柔らかく相手を立てつつも、しっかり毅然と相手に折れないでしょ? そのやり方がすごく上手いから同行して学んでこいって支店長は言ってたんだよ」
初めて聞いた。私はぽかんとしている。
「俺ってすみませんでした! ってストレートに謝るか、こっちが悪くてもゴリ押しで笑顔でなあなあで押し通す感じじゃん? そういうやり方じゃ太刀打ちできない相手も出てくるから、あの手この手で相手を黙らせるみのりさんの手腕、しっかり見とけってさ」
「そんな風に思われてるなんて知らなかったわ……だって支店長、私よりあなたのことを評価してるって感じだし」
「あー。それってほら、うちの会社昔、先輩がパートさんとセクハラ問題で大騒動になったらしいじゃん。それで、女性社員にはどう接していいのか支店長結構ビクビクしてるっぽくて」
「……知らなかった」
「褒め方失敗したら、みのりさんはガツンとしっかり訴えそうじゃん」
私は思わず吹き出した。
「私、そんな風に見える!?」
「見える見える。かっこいーもん、強くてさ」
意外な反応だった。
私は微笑みながらふと思い出し、上着のポケットからスプーンを取り出し、マグカップのコーヒーをくるくると混ぜた。スプーンのは可愛らしい文字で店名が描かれていた。
「……『おつかれさまのマヨイガ食堂』、か」
あれは夢だったのだろうか。疲れたあまり、道を間違えて入り込んでしまった場所なのだろうか。
なんとなくもう二度といける気がしない。
けれどこのスプーンがあるあいだはーー私まだ、頑張れる気がした。
◇◇◇
「なるほど、兼業主婦の作った、煮込んでいないカレーの思い出……確かにそれはこれまでの『思い出』にありませんでしたね」
ーー閉店後の食堂にて。
店長は女中と一緒に席につき、二人でカレーを実食していた。
「ん〜! 牛肉と白米のカレーライスはやっぱり最高ですねっ!」
頬に手を添え、女中姿の娘がたまらないといった顔をする。
「うちの生きとった時代には、カレーなんて鯨肉がみじん切りでこま〜く入っとるだけでしたもんねえ。くっさい肉の臭い消しのためにカレーにしとったって感じでしたし。米も玄米で。しかも女中のうちなんて食べられんし。カレー粉炒めて、作って匂いだけで『は〜! 美味しかろな〜!』って想像で味わうだけで、あとは旦那様がたがぺろりたいらげて。……はあ、美味しいなあ」
「『うちが生きとった』って、あなた大往生したでしょう、100歳超えて」
「へへ。遣いになって娘の姿になったら、この年頃の気分になるもんですよ、神様」
女中姿の娘はにっこりと笑う。
向かいの店長はいつの間にか、銀髪から大きな狐耳を生やし、ベストのセンターベンツから長いふさふさとしたしっぽを出していた。
「……今日もこうして『思い出』と『感謝』をいただいたので、またしばらくはここを営めそうですね」
唇をペロリと舐め、店長の狐は窓の外を見る。
窓の外には賑やかなアーケード街の景色が写っている。
ーー戦後日本の好景気。
もはや戦後ではないーー華やかな装いに身を包んだ女性たちに、元気に駆け回るたくさんの子供達と、割烹着を着て買い物に向かう女たち。夜の街に笑顔で向かう、力仕事でくたびれた様子の男たちの背中。
日本全国で当たり前のようにみられた、人々の営み。
その記憶たちがないまぜになり、この異界の地で永遠となっている。
店長が一つ一つ集めた『人の幸福な記憶』の集合体だ。
人口減少社会。日本各地、さまざまな土地からは人が消え、思い出が消え、記録にすら残らない過去を伝承する人も、文化も全て失われてしまう。日常生活の記録なんてあっという間に消えていく。
店長は人々の心から消えた「失われし場所」に住んでいる。
そこは古くは隠世ともマヨイガとも呼ばれ、今は怪異として人々にまことしやかに噂されている場所。
全国各地の鉄道から、どこからともなく連れて行かれるどこか。
そして店長は人々の『思い出』に触れ、対価として思い出の味を差し出している。
カレーを一口、口にする。
バーテンダーの瞼の裏に、カレーを一緒に作る幸せそうな母娘の姿が映る。
『ごめんね、お母さんあまり料理得意じゃないから』
『そう? 美味しいじゃんカレー。早く食べちゃおうよ、一緒にさ』
『……ふふ、そうね』
少しだけ煮込んだカレーの火を止め、ナイター中継を見たまま寝てしまった父を起こさないようにそっと二人で食べたカレー。
仕事を持つ母の、化粧の匂いが好きだった。
友達のお母さんたちとは違う、ハイヒールでカツカツと歩く背中が好きだった。
ーーそんな母が、申し訳なく思う必要なんてない。
私だって、お母さんみたいになりたい。
「……すでに幼い頃から、同志だったのですね、お二人は」
「ねえマスター、うちおかわりしていい?」
「いいですよ、組さん。お腹いっぱいになってまたあなたの100年の『思い出』も聞かせてくださいね」
「勿論ですよ〜!」
組と呼ばれた女中はいそいそと空の皿を持って奥へと入る。
狐はカレーをまた一口味わいながら、ふっと一人呟いた。
「農耕神だった時代から、御食津神の眷属を経て……立場は変われども、ニンゲンの心はやはり、食の幸福と共にあるのだと常々感じますね」
その時。
ーージジ、と羽音のような音を立て、窓の外の景色が変化する。
「また迷い子が来ますか。次はどんな……『思い出』を供えてくださるのでしょうね」
『ごちそうさまでした、良き思い出、忘れられし追憶を』