「次はツバメが丘。終点、ツバメが丘です」

金曜日の帰宅ラッシュの時刻を過ぎた車両内は、僕を入れて男性六人、女性二人。
それぞれがスマホをいじり、鏡で前髪を確認し、熱心に文庫本を読んでいる。

貸し切り状態の向かいのソファ席では、ダメージジーンズに、左胸に昇り龍の刺繍を施したスカジャンという派手な格好の中年男性が、車掌のアナウンスもそっちのけで揺れに合わせて大きく横に揺れ、寝ぼけながら態勢を戻し、またずるずると倒れ込む。

そんな派手な男性越しの、後方に流れ過ぎていく景色が徐々にスピードを緩めていく。

飛ぶように過ぎていた夜景が次第にくっきりと映り、山々の稜線が闇に沈み、ぽつりぽつりと田舎の町明かりを灯した景色が流れる。

ツバメが丘は、僕と美咲が同棲した町だ。

ビジネスの中心地まで電車で一時間はかかるが、静かで、一部には古い町並みを残した自然豊かな景観を気に入って、美咲が絶対にここが良いと言ったのだ。
最近はレトロな街並みを特集した雑誌で一ページを飾った記事を得意気に改札口の壁に大きく貼り出し、雑誌を見た観光客がちらほらと訪れるようになった。

駅を出て、ロータリーの時計台を見上げる。時刻は午後八時半過ぎ。

九月の終わりの田舎には無数の星屑が散らばり、雨上がりの今夜は、昨日よりも澄んだ月が、濁りの無い光を夜空に滲ませていた。

なんだか美しいと思う風景は、同時に自分をより惨めな存在に思わせて、一層虚しくなる時がある。

今の会社に就職して来年で十年になる。同僚は結婚していたり、その予定があったり。俺もその一員だと思っていた。

何も残っていない、自分はこのまま一生をこうして会社の往復だけで終えてしまうのだろうかと思うと、心が一気に黒い泥水に飲まれてしまいそうになる。

口を開けばため息が出て、食べる事にも興味が薄れていく。ここ最近も、かろうじて朝食代わりの珈琲を飲むだけの日々が続いていて、頬がこけ始めたのを上司に弄られたばかりだった。

「まだ、開いてるな」

美咲と婚約解消して二カ月。

未来を見据えて借り3LDKのマンションは、一人住まいにはあまりに虚しく広すぎた。
自分の片割れを失ったかのように抜け殻も同然だったが、何とか重い腰を上げて引っ越したのが今月の頭。

引き籠りたくても仕事がそうはさせてくれないお陰で、何とか毎日踏ん張っているのが現状だ。

常備している珈琲は美咲と見つけた喫茶店のオリジナルだったこともあって、何となく足が遠のいてしまっている。
最近はスーパーで見つけた安いインスタント珈琲で繋いでいたが、なんだか無性にあの店の珈琲が飲みたい。
好きなものをずっと控えていた事に対する禁断症状のように、あの味を思い出すだけで喉が渇いて、早く手に入れたいと心が急いてしまう。

秋の足音が近付いて、ロータリーを彩る花壇や垣根から虫の音が辺り一帯に響き渡る。

ずしりと重いビジネスバッグを肩に食い込ませ、傘を左手に持ち直した僕は、迷わずあじさい通りへ続く商店街へと歩き出した。