「いらっしゃいませ」
「こんばんは」
「こんばんは。今日も一日お疲れさまでした」

 今日「も」。
 どうやら数日前の来店を覚えられていたことに、望は密かに安堵する。

 日中の仕事を怒濤の勢いで片付けた望は、再び夜食処へと訪れていた。
 会社からの道順には少し自信がなかったが、手渡されていたメモ紙に記された住所が頼りになった。

「今日も野菜たちが元気にお待ちかねですよ。メニュー表をどうぞ」
「ああ、いえ。よければまた、以前と同じロールキャベツのお夜食をお願いします」
「承知しました。できあがりまで少々お待ちくださいね」

 ふわりと柔らかな笑みをたたえ、沙都はカウンター内へ戻っていく。

 相変わらずうきうきと音符が見えてきそうな沙都の様子に、望は知らずのうちに笑みを浮かべていた。

「……? どうかされましたか」
「いいえ。ただ、とても楽しそうにお料理されているなあと思いまして」
「……前回は、大変失礼いたしました。頼まれたわけでもなく、野菜のあれやこれやと語りはじめてしまいました」

 巨大冷蔵庫から取りだした春キャベツを脇に置き、沙都は深々と頭を下げる。

 どうやら先日自分が家路についたあと、一人反省会を開いていたらしい。

「確かに圧倒されはしましたが、不快には思いませんでしたよ。野菜への愛情が感じられて、好感を持ったほどです」
「本当ですか」
「ええ」
「よかった……!」

 心底胸をなで下ろしたのが伝わる笑顔に、思いがけず胸が大きな音を鳴らす。

「実は以前、私の話がいきすぎてお客さまに叱責を受けたことがありまして……それ以来、程よい会話を探りつつ経営を続けているんです。馴染みの方は逆に会話を望んでくださる方もいらっしゃいますが、初来店の方がそうとは限りませんから」
「こればっかりは、人それぞれですからね」
「本当に。日々試行錯誤の連続です」

 ふふ、と笑みを交わしたあと、沙都は再び調理へと手を進めていった。

 みずみずしい春キャベツの葉を、労るように一枚一枚切り離していく。
 色とりどりの野菜たちを細切れに刻んでゆき、挽肉と卵、豆腐とあわせて手早くこねていった。
 キャベツの着物を美しく纏ったタネたちが、小鍋の中に丁寧に敷き詰められていく。

 ふうわりと漂ってきた豊かなだしの香りに、望は思わず深呼吸をしてした。

「いい香りですね」
「ありがとうございます。もう少しだけ、お待ちくださいね」

 いたずらっぽく告げる沙都に、望も自然と笑みが引き出される。

 沙都という女性は、どうやらこの店舗を一手に経営しているらしい。

 料理、こと野菜に関して特別な愛情を持っている様子の沙都にとって、きっとこの仕事は天職なのだろう。

 しかしその反面、一人での店舗経営は並大抵の努力では継続が困難だということも、イベント企画に携わる望は熟知している。

 先ほども沙都は、客人から叱責を受けたことがあると話していた。

 正当な指摘ならまだしも、人目が少ない深夜となれば、理不尽な要求を通そうとする輩が現れても不思議はない。

 しかも、こんなに可愛らしい女性がひとりで店に立つというのは──、とそこまで考えた瞬間、望の思考がぱちりと止まった。

 陰った視界に顔を上げると、トレーを差し出す沙都と目が合う。

「お待たせいたしました。ロールキャベツのお夜食でございます」
「あ、ありがとうございます」

 思わず言葉に乗ってしまった動揺を抑えつけ、望は笑顔でトレーを受け取る。

 今日のお夜食も、仕事疲れをひきずった望の食欲をみるみる引き出していった。

 温かなだしの利いたロールキャベツを、ゆっくりじっくり味わっていく。
 このお夜食を食べることで、足りていなかったいろいろなものが優しく補充されていくような心地がした。

「美味しいです。とても」
「ありがとうございます。どうぞゆっくりされてくださいね」

 食事を進めながら、望はそっとカウンター越しに沙都の姿を見遣る。

 緑色のベレー帽を頭に置き、カウンターに並べた野菜たちをひとつひとつ丁寧に手に取っている。
 時に満足げに、時になるほどと顎をさすりながら凝視したあと、表面をそっと撫でつけてふわりと笑みを深める。

 その横顔はまるで、我が子の成長を喜ぶ母親のようだ。

 心の中で呟いた瞬間、伯父のにやけ顔がふと頭を過り、望は慌ててかぶりを振った。

 違う違う。
 これは別にそういうあれではない。

 沙都はただ業務を遂行して、自分に料理を提供してくれている。
 自分はそれを、お金を払って提供されている。

 ただそれだけの関係だ。

 それにどのみち、自分がここに通うことが出来るのだって今月いっぱいであって──。

「あの。もしかして、味に何か問題がございましたか」
「え?」

 気づけば心配そうに眉を下げた沙都が、カウンター越しにこちらをじいっと見つめていた。

 先ほどまで愛おしげに野菜に向けられていた瞳に、今は自分が映し出されている。
 その事実に、心臓が大きく震える。

「今、首を何度か振られているようでしたから。何か不都合がございましたら、すぐに作り直しますが」
「っ、いいえ違います」

 どうやら先ほどの自分の動作が目に留まってしまっていたらしい。
 望は慌てて手を横に振った。

「誤解をさせてしまってすみません。仕事のことで、少し考え事をしていまして」
「そうでしたか。こんなに遅くまでお勤めなんですもの。きっと大変なお仕事なんでしょうね」
「……実は私、来月に関西への転勤が決まっているんです」

 するりと口から出た話題に、望自身驚いた。

 どうして沙都に話そうと思ったのか、話したことで何を期待したのか。
 どちらもよくわからないまま、しかし言葉は元には戻せない。

「転勤自体に迷いはないんですが、慣れた土地を離れることになりますし、やっぱり少し考えることもあって」
「そうなんですね……関西ですか」

 どこかしんみり告げる沙都の表情を、望はうまく見ることができなかった。
 一体どんな表情で言ってくれているのだろう。

「私も、地元から離れるときはやっぱり色々と考えたものですが、期待も不安もありますよね」
「そうですね。それにその」
「?」
「せっかく素敵なお店を見つけたばかりなのに、残念だなあと」
「……もしかすると、うちのことでしょうか?」

 聞き返され、望は顔を持ち上げ正直に頷く。

 その瞬間、沙都の表情にふわっと幸せそうな笑みが浮かんだ。
 まるで桜の花のような人だな、と望は思った。

「ありがとうございます。そう言っていただけるととても嬉しいですし、励みになります」
「ここのごはんを食べてから、少しおざなりになっていた食生活も見直す意識が出てきました。確かに、食べたものが自分を作ると考えると、あまり適当にはしていられませんよね」
「そう、そう。その通りだと思います!」

 いつの間にか、沙都の野菜愛に火がついてしまったらしい。
 深く頷いたあと、沙都はカウンターに並べていた野菜たちから、大きな丸いものを抱え上げた。

 本日の主役でもある、春キャベツだ。

「このキャベツは、千葉県と東京都の県境の農家さんからうちに来ることになりました。その農家さんは夫婦二人で畑仕事を続けておられるんですが、人手も足りず、幾度となく今期で最後にしよう、最後にしようとお話が出ていたそうなんです」
「そうなんですか」
「それでも、この農家さんの春キャベツを求める人の声はあとを絶たなかった。ご夫婦がこの春キャベツ栽培をはじめたのはもう二十年以上前なんですが、当時ではかなり画期的な農法を取られていて……」

 初対面のときこそ呆気にとられた望も、今回の話には純粋に耳を傾けることが出来た。

 沙都のうちに宿る野菜への愛情を、自分はもうすでに知っているのだ。

「ですから、この地を離れてしまってもきっと大丈夫です」
「……え?」
「お野菜は今はもう、全国至る所で顔を合わせることができますから」

 包み込むような笑顔で、沙都は続ける。

「もしも心細くなったときはきっと、野菜さんたちがお客さんを見守ってくれています。食べてくれてありがとう、私も君を応援するよって言ってくれています。私もずっとそうでした」
「……」
「だから、どうか元気を出してくださいね」
「……俺」
「はい?」
「……少し、元気が出ました。ありがとうございます」

 笑顔で返した望の言葉に、沙都も笑みを濃くする。
 本当に続けたかった言葉を呑み込んで、望は食事を平らげた。

 俺の名前も、お伝えしてもいいでしょうか──なんて、さすがに言えない。

「ご馳走さまでした」
「はい。お粗末さまでした」

 会計を済ませたあと、沙都は前回と同様に小さなメモ紙を渡してくる。

「どうぞ、お気を付けて行ってきてくださいね」
「……はい。ありがとうございます」

 わざわざあんな話をしたんだ。
 きっと沙都は、もう望は店に来ないと思っているに違いない。

 店が見えなくなる位置まで歩みを進めたあと、望は手中のメモ紙の中身をそっと覗く。

 そこには前回と内容の異なるキャベツレシピとともに、やはり手書きのメッセージが添えられていた。

 ──関西のキャベツ料理といえば、やっぱりお好み焼きですね!

「本当に、野菜一色だな。あの子は」

 にっこり微笑む手書きの似顔絵を、親指でそっと撫でつける。

 財布の中に丁寧に仕舞った二枚目のメモ紙は、小さな落胆を抱える望の胸をほんのり温めていた。