「えーっと、そういうことで……記憶が戻るまでお手伝いしてくれることになった、アキラくんです。まだ慣れないことも多いですけど、皆さんよろしくお願いしますね!」
「……、よろしく」

 汚れを落とし服を着替え、伸びきった髪を整えると、アキラくんはわたしより少し年上に見える、精悍な顔立ちの青年だった。
 ぼろぼろの見た目をしていたけれど幸い外傷等はなく、あるのは記憶の混濁だけ。バックヤードを一時的な彼の部屋として一週間程安静にして、美味しいご飯できっちり療養したら、体力も戻ったようだった。

 この店に辿り着いたということは、誰かの紹介なのだろう。店長と相談した結果、記憶が戻るまでの間、彼をアルバイトとして雇うことになった。

 わかっているのは、彼のしていた銀色のネックレスに刻まれていたらしい名前だけ。それ以外の持ち物はなく、どこに住んでいたとか、どんな仕事をしていただとか、それどころか自分が何のあやかしなのかも覚えていない。

 店を手伝い常連さんと会うことで、記憶が戻るきっかけになるか、何かしら情報が得られるだろうと踏んでの策だった。

「あらやだぁ、この間落ちてた子? こんなに格好良いなら、寧々子が拾っておけば良かったわぁ……ねぇ、彼をテイクアウトって出来ないのぉ?」
「店員はテイクアウト対象外です!」

 イケメンに目のない寧々子さんは、早速アキラくんが気に入ったようだ。先日絡まれていた鑼木さんは閉店頃にはすっかり憔悴していたけれど、アキラくんもああなっては困る。わたしはアキラくんの手を引いて、一旦店の奥に戻った。

「あのねアキラくん。お客さんにはいろんな人が居るから、もし身の危険を察知したらわたしに言って。先輩としてちゃんと助けてあげるからね!」
「はあ……」

 記憶のない彼は、まだどこかぼんやりとしている。危機感のなさそうな返事に心配になりながらも、改めて彼の担当する業務の確認をした。

 お客さんが来たらお出迎えして、お席にご案内して、おしぼりとお冷やを運んで、お料理の注文を聞いて、店長に伝えて、出来上がったらお席に運ぶ。
 運んだ内容に間違えないか確認して、伝票を置く。時折お冷やのお代わりを運んだり、お客さんが居なくなったらお席の片付けをしたりする。
 明け方には閉店準備をして、お店のお掃除をして終了。

 次の日の仕込みだとか買い出しだとかは店長の仕事なので、わたしたちは一旦休んでいい。
 昼過ぎには料理の手伝いやら店の敷地の掃除やらをして、黄昏時にはまた開店する。

 営業時間中は、時間があればお客さんと交流して、疲れた心を癒すことが出来れば尚良し。
 ここに来るお客さんは大抵、人間社会ではなかなか難しい気の置けない交流を好むけれど、ひとによってはひとりが好きなお客さんも居るから、その辺は慣れと空気を読んで立ち回るべし。

「ここまでで、何か質問はある?」
「あ……ひとつだけ」
「なあに?」
「……俺の身の危険は、椿姫さんが先輩として助けてくれるって言ってたけど……」
「うん……?」

 アキラくんは繋いだままだった手を緩く握り返して、わたしの顔を覗き込む。

「椿姫さんの危険は、俺が男として守っていいの?」
「……へ!?」

 予想外の言葉に、思わず目を見開く。癖の強いお客さんたちに振り回されないよう、何でも自分ひとりで対処出来るようにと、随分強かになったつもりだった。それを、守ってくれるだなんて。療養中世話を焼いたから、懐かれでもしたのだろうか。

 こみ上げてくる妙な照れと、何だか落ち着かない感覚に、わたしは慌てて手を離した。

「わ、わたしは大丈夫だから! もうこの店の看板娘歴十年のベテランだよ!?」
「十年……」
「そうそう。常連さんたちのこともわかってるし、この店で危険なことなんて早々……」

 何となく気恥ずかしさを誤魔化すように足早に戻ろうとすると、何やら店の方が騒がしい。

「……? 皆さん何を騒いで……、っ!?」

 扉を開けると、その瞬間、目の前を木製の椅子が真横に飛んでいった。

「……あー、あのひとも、常連さん?」
「え……、え?」
「危険なこと、あるじゃん」
「……こんなの十年目にして初ですけど!?」

 思わず呆然と立ち尽くす。店の中は、そんなことを言ってる間にもめちゃくちゃになっていた。
 お相撲さんのような大きな身体をしたお客さんが、机や椅子を壁に投げつけ暴れている。
 その迫力を間近に見て固まっていると、猫の姿になって避難してきた寧々子さんがアキラくんにしがみついて来た。

「わぁん、二人とも、ちょっと何とかしてぇ!」
「ね、寧々子さん、何があったんです!?」
「知らないわよぉ、あのでかいのが突然入ってきて『この店は出迎えもないのか』って暴れだしてぇ……!」
「っ……!」

 わたしがアキラくんを裏に連れて行っている数分の間に、こんなことになるなんて。
 怒りに任せて破壊を繰り返すあのひとは、初めて見る顔だ。誰の紹介にしたって、こんなの酷すぎる。

「……椿姫さん、ここは危ない。一旦離れよう」
「でも……」

 幸いこちらには気付いていない。逃げるなら今だ。どう考えても力では勝てっこない。まずは、アキラくんたちを連れて安全な場所に避難しなくてはいけない。

 狭い店内で暴れる大きな影に怯み立ち尽くしながらも、どこかで冷静な自分がいた。
 けれど、天井に貼り付いた木綿樹さんや、倒れた棚の陰に隠れるように避難した鑼木さんを見て、はっとする。
 そしてわたしは意を決して、震える足で一歩踏み出した。

「椿姫さん!?」
「……お出迎えが遅くなり申し訳ありません。ですが、ご覧の通りお通し出来るお席がなくなってしまいましたので、本日はお引き取りください」
「何だと、この店は客を選ぶのか!?」

 こちらを振り向いた巨体が、血走った目をしてわたしを見下ろす。
 変化が完全には解けていない、夜の海に似た黒い肌をした、見た目は恰幅のいい人間のおじさんの姿。なのに、この迫力だ。
 正直、逃げ出したい。それでも、ここはわたしにとっても、みんなにとっても大事な場所だ。この店を守らなくてはいけなかった。

「お客様を選ぶわけではありません、ですが……」
「うるさい、どいつもこいつも、そうやって見下しやがって!」

 何とか説得して、落ち着いて貰おう。そう思うのに、至近距離から降り注ぐ大声に、上手く言葉が出てこない。
 さらに激高した大きなお客さんは、残っていたテーブルを片手に、わたし目掛けて振りかぶった。

「椿姫さん……!」
「……っ」

 殴られる。反射的に固く目を閉じた瞬間、感じたのは痛みではなく、包み込むような温かく力強い感触だった。

「……?」

 しばらくの静寂。恐る恐る目を開けると、わたしを庇うように抱き締めてくれている、アキラくん。
 そしてその背の向こうで、大きなお客さんが振り上げた腕を調理器具のお玉ひとつで止めている、料理人服の店長の姿。

「て、店長……!」
「な……っ」
「おうおう、店をめちゃくちゃにしやがって。どうしてくれるんだ? 今日の売り上げ、店の備品、ついでに従業員とお客様への慰謝料。その他諸々、どう落とし前付けて貰おうか? ああ?」

 それこそ、記憶喪失のアキラくんを住み込みのバイトとして雇ってくれるような、普段は面倒見もよく温厚な店長だ。けれど今は相当怒っているようで、額から生えている鬼の角が、いつもの倍近く大きく禍々しくなっている。

「ひっ、鬼……!? す……すみませんでした……!」

 鬼は、あやかしの中でも上位種らしい。暴れていたお客さんは力の差をすぐに理解して、振り上げたテーブルを床に落とし、すぐに大人しくなった。

「……椿姫さん、怪我はない?」
「だ、大丈夫……ありがとう、アキラくん……」

 守ると言った彼の言葉を早速体感することになり、フラグ回収の早さに動揺が隠せない。
 そう、このどきどきは、怖くて、驚いたからだ。そうに違いない。

 わたしはすぐに彼の腕の中から脱け出して、他のお客さんたちの無事を確認する。
 腰が抜けた鑼木さんの手を引いて立たせ、気が抜けて天井から落っこちてきた木綿樹さんはアキラくんがキャッチしていた。

「……本当にすみません、鬼の旦那。オレ、ようやくこの店に来られて、嬉しくて……なのに先客の連中は変な目で見やがるし、出迎えもないもんだから、ここにもオレの居場所なんてないんだって……」
「だからって、店員の話も聞かず暴れてちゃ世話ねぇなぁ? 居場所も何も、自分から破壊してんじゃねぇか」
「はい……おっしゃる通りで……オレはこの性分のせいで、海にも居場所がなくなって、人間の世界に……」

 大きな身体を縮めて壊れたテーブルや椅子の散乱する床に正座をしたのは、海坊主というあやかしらしい。
 怒りから船を壊すこともあるという彼が、店自体を壊さなかったのは不幸中の幸いだ。

 人間の世界に紛れ込み暮らすあやかしは、極一部のもとから人間に友好的で興味があって来た者と、大半が元々居た世界にも居場所がなく、新天地を求めてやって来た者なのだ。彼もおそらく後者なのだろう。

「ところで、ようやく店に来れたってのは、誰かの紹介なのか? お前さんみたいな暴れん坊主を一人で来させるなんざ何を考えて……」
「あ、いや……それが……、……」
「……何だと!?」

 何かに驚いたような店長の声が響いたけれど、その後の会話は小声になって聞こえない。そのまま裏に連行された海坊主さんの背を見送って、わたしはようやく一息吐く。

「すみません、皆さん。せっかく来ていただいたんですけど、お店はこんな状態なので、今日はもう閉めちゃいますね」
「しかたないよ……営業再開したら、また来るからね」
「ありがとうございます、鑼木さん。……皆さん、本当にすみません。今日のお代は要りませんので、またご贔屓ください」
「お、ほんまに? もっと飲み食いしとけば良かったわぁ……なんてな。そんな気にせんでもまた来るし、つばきちゃんが謝ることやあらへんで~」
「木綿樹さん……ありがとうございます……」
「そうそう、寧々子たちの大好きな場所、めちゃくちゃにされたのは悔しいけどぉ……あんな怖いの相手に対峙した椿姫ちゃん、格好良かったわぁ。その辺で腰抜かしてた男とは大違い!」
「うぐ……」
「ふふっ、店員として……ううん。『黄昏食堂』を愛する者の一員として、当然のことをしたまでです。……なんて、何とかしなきゃって夢中だったので、あんまりよく覚えてないんですけど」

 わたしは一通り常連さんたちにお詫びをして、全員のお見送りした後店を閉めた。
 店長と海坊主さんがバックヤードで話をしている間、わたしとアキラくんで店の片付けをする。

 口数の多い方ではないアキラくんとの作業は、沈黙が多い。先程抱き締められたのもあり、何となく気まずかった。

「えっと……とりあえず、壊れたテーブルと椅子は、お店の裏に運んで貰っていいかな」
「わかった」

 アキラくんは器用にテーブルに椅子を幾つか重ね、店の外に運び出す。
 彼が大きな物を担当してくれる間に、わたしは細かい木やガラスの破片をホウキとちりとりで片付けることにした。

 砕けてしまった置物や、欠けてしまった丼やグラス。凹んだ壁に、割れた窓ガラス。
 長く親しんできた大切な場所が壊されてしまったことを改めて実感した瞬間、どうしようもなく涙が溢れてきた。

「……っ」

 一度こみ上げると止まらない涙に戸惑いながら、感傷から拾った器の破片で指を切って、痛いのか悲しいのかもわからなくなる。そのまま小さく蹲っていると、不意に人の気配がした。

 きっとアキラくんだ。慌てて目元を袖で擦り立ち上がると、予想外の人物がそこに居た。

「ご、ごめんね、さぼってたわけじゃ……」
「椿姫ちゃん……?」
「え、鑼木さん!? なんで……」
「忘れ物を取りに……来たんだけど、……これは」
「ああ、すみません。ちょっと指を切っちゃって、痛くて涙が……」

 情けない泣き顔を見られたと思い、慌てて顔の前で手を揺らし誤魔化すけれど、次の瞬間、鑼木さんはわたしの手首を掴んだ。

「この血の香りは……、人間?」
「は……?」

 鑼木さんの目が、血に飢えた獣のようにわたしの指先に浮かぶ赤を見詰める。

「そうか、椿姫ちゃんは、人間だったんだ……店長の娘って聞いてたから、てっきり鬼かと思っていたのに……だから、本気で手出しせずに我慢していたのに」
「あの、鑼木さん……?」
「人間なら、いいよね? 表の世界では、迫害されないようたくさん我慢してるんだ……事情を知ってる椿姫ちゃんなら、問題ないよね?」
「え、いや、待って、わたしは……!」

 興奮して早口で捲し立てる様子に、日頃のように軽くいなすことが出来ない。思わず後退りすると、狂喜的に顔を歪めて笑む口許から、鋭く尖った牙が覗く。
 否定しなくちゃ、誤解だって言わなくちゃ。そもそも血のワインのテイスティングだって、いつも間違えてばかりじゃないか。そう言いたいのに、声が上手く出ない。

 そして手首を掴んだまま、鑼木さんは血の玉の浮かぶ指先を、そのまま口に運ぼうとした。

「大丈夫、少し味見するだけ、ほんの少しだから……。それじゃあ、いただきます」
「あ……」
「ぐえ……!?」

 もう駄目だと目を閉じ身構えた瞬間、不意に潰された蛙みたいな声がして、恐る恐る目を開ける。
 鑼木さんの首元のリボンが、後ろから思い切り引っ張られたのだろう。苦しげに呻いたその背後には、いつの間にかアキラくんが居た。

「あー……当店はセクハラ禁止となっております」
「ひ……っ!」

 アキラくんがそのままじろりと睨むと、鑼木さんはすぐにリボンを解き捨て逃げていった。まるで蜥蜴が尻尾を切り離して逃げるような潔さだった。

「大丈夫? 椿姫さん」
「……だい、じょうぶ。びっくりした」
「勤務初日にして、この店やっぱり危険多くない?」
「……こんなの、十年目にして初なんだってば」

 また助けられた。安心と申し訳なさと、不思議などきどき。
 きっと、慣れないトラブルばかりだったせいに違いない。わたしはほんのり熱を帯びた顔を隠すように俯く。

「あ……怪我、平気? 待って、絆創膏か何か……」
「ううん、平気。ちょっと切っただけだから……と、アキラくん、何か落ちたよ!」

 絆創膏を探しに行こうとしたアキラくんから、何かが落ちた。俯いたわたしの視線の先、煌めく銀色のネックレス。名前の刻印された、彼の唯一の所持品だ。
 けれど最初に見せてもらった刻印の反対側に何か見えた気がして、わたしは反射的に、それに手を伸ばす。

「え、あ……」
「あ」

 その瞬間、同じく伸ばされた彼の手が、わたしの手の甲を覆うように重なった。
 ネックレスに、血が少し付いてしまったかもしれない。けれどそれよりも、重なった手の熱や長い指先の感触に意識が向いてしまい、落ち着かなかった。反射的に、手を引っ込める。

「ご、ごめん……」
「ううん、落ちたの、教えてくれてありがとう」

 アキラくんはそんなわたしの様子に気付かないように、ネックレスを拾い上げ、つけ直して背を向ける。

「あー……働いて十年っていうけど、椿姫さん幾つ?」
「え、えっと……十八歳くらい、かな?」
「くらい? というか、それだと八歳から働かされてるの……? ここ案外ブラック……?」
「そうじゃないよ! えっと、わたし、小さい頃に店長……お父さんに拾われたの」
「え……」

 二人で片付けの続きをしながら、ぽつりぽつりと話す、鑼木さんをはじめとしたお客さんたちは知らない、わたしのこと。

「小さい頃のことは、よく覚えてないの。でも、アキラくんと同じ……ひとりぼっちのわたしをお父さんが拾ってくれて、このお店で育ててくれたんだって」
「そう、なんだ……」
「ああ、そんな同情顔やめて! というか、現時点で記憶喪失なアキラくんの方があれだから!」
「まあ……それはそう」
「ふふ、でしょ?」

 過ごした時間は短いのに、二度も助けられたからだろうか。それとも、彼に語る記憶がないからだろうか。
 わたしは、今まで誰かに話すことの出来なかった過去を、気付けば口にしていた。

「物心ついた頃には『どうしてわたしにはお母さんが居ないの?』『どうしてわたしにはお父さんみたいな角が生えないの?』って質問責めにしてね。そうしたら、お父さんは包み隠さず、本当の子供じゃないって教えてくれたの。だから、もうとっくに受け入れてるんだ」

 強がりなんかじゃなく、本当の子供でもないわたしをここまで育ててくれたお父さんには、感謝しかない。血の繋がりなんか関係なく、愛されているのもわかっている。

「それで、七、八歳になる頃にはお店のお手伝いをさせて貰えるようになって……でも、小さい子供を働かせるなんて色々あれだろうし、それに、お客さんもいい人ばかりじゃないから……わたしは拾われっ子なのは隠して『鬼の子』として店に立つようになったんだ」

 先ほどの海坊主さんもそうだ。あれだけ暴れていたにも関わらず、鬼だというだけで、戦うこともなくすぐに降伏していた。
 鬼という肩書きは、何よりも強い鎧だった。だからこそ、それが偽りのものだなんて、誰にも知られてはいけない。そのはずだったのに。

「境遇が似てるからかな、アキラくんには、話しちゃった」
「……問題ない。べらべら話す趣味はないし……椿姫さんに鎧なんかなくても、俺が守ればいいんだから」
「……!」

 涼しい顔をして話す横顔を、思わず見上げてしまう。するとそれに気付いてわたしを見下ろした彼と視線が合って、何だか余計に鼓動が跳ねた。

 何と無く言葉が出ないまま見詰め合っていると、店の奥の扉が音を立てて開く。
 思わずびくりと肩を揺らし振り向くと、そこに居たのは何やら焦った顔をしたお父さんと海坊主さんだった。

「椿姫! すまん、ちょいと急ぎで確かめなきゃならんことが出来た」
「えっ、何、どうしたの?」
「説明は帰ってからする。しばらく留守にするから、店の片付けやらは任せた!」
「え……ええ……?」

 最低限の説明で嵐のように去って行く二人を見送り、わたしとアキラくんはまだ散らかったままの店の真ん中で、呆然と立ち尽くすしかなかった。


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