こんちには、アイリスです。
 乙女ゲームのヒロインとして生まれ変わった、あのアイリスです。

 季節は初夏に突入しまして、蝉とは違った『ウェーイウェイウェイ』と鳴く虫の声が耳に届くようになりました。この国では気温が高くなるとわらわら出現する虫らしいけれど、いかんせんこの鳴き声よ。笑いを誘ってるよね。
 私は密かにウェイ虫、またはパリピ虫と呼んでいる。そろそろ正式名称を知ろうかなと思いつつ、生活に支障はないのであの虫に関しては無視の方向でいこうと思う。

 さて、平民だった私も二ヶ月を過ぎればある程度は学園での生活にも慣れてくる。初めは他の生徒たちに好奇な目で見られもしたけれど、さすがに飽きたのか最近では突っかかってくる輩も少なくなった。いなくなったわけではない。

 うんうん、平和が一番いい。乙女ゲームの主人公ではあるけれど、エリザベス様とのあの一件があった日から私は極度に男を避けていた。面倒ごとは嫌だったので、ゲームで見覚えのあった顔が近くにいたら華麗に遠回りをして学園内を歩いていたのだ。

 そう、接触イベントさえ起こさなければ、私の世界は至って平和なんだよね。このまま夏休みまで淡々とスキルアップすることが私の目標である。
 乙女ゲームの主人公(ヒロイン)である私だけれど、恋愛している暇なんてないからね!


「……はぁぁ」

 学園の東棟には、今はもう使用されていない聖堂がある。現在は新しく造られた大聖堂が中央棟にあるため、こちらは長らく誰も足を踏み入れていないのだ。
 そこを私はこっそりシェルターとして使っていた。一人で休みたいときや、勉強したいときなど、学園に来たばかりの頃はとても助かっていた場所である。

 そんな聖堂の中に設置された長椅子に寝転んでいた私は、現在ある問題に頭を悩ませていた。
 その悩みとは──

「エスターテのパートナー……どうしよう」

 私が通うこの学園は、季節の訪れに大きなパーティーが開かれる。
 春を『プランター』、夏を『エスターテ』、秋を『ヘルプスト』、冬を『イヴェール』と名付け、総称してシーズンパーティーという。
 シーズンパーティーは、王族や貴族が在籍する学園なだけあって大々的に行われているそうだ。
 何をするかというと、端的に言えば社交界である。学園の大ホールを夏仕様に装飾し、夏用のドレスに身を包んで季節を迎え入れるためのパーティーをするのだ。

 パーティーといえば、必須なのはパートナー。
『エスターテ』も例外はなく、会場入りするには学園に在籍する異性のパートナーが必要だった。

「これ、サボってもいいのかな。いや、ダメだよね」

 思わず自問自答してしまう。サボれば自分に、というよりも家名に傷を付ける恐れがある。そのため生徒は原則全員参加となっていた。
 いやぁ、若いのにすでに家名を背負って生きているなんて、この世界の人たちは本当に凄い。尊敬する。

 けれど私も他人事ではなかった。
 今の私の名前は、アイリス・ペテンシア。ペテンシア伯爵の養子として、そう名乗ることを許された私も、家名を背負う一人なのだろう。

 とはいえ私を引き取ってくれた伯爵は、とても寛容な人である。
 何をするにも、私の自由でいい。学園の成績に関しても無理して頑張る必要はないと言ってくれているし。伯爵自身もぶっちゃけ見た目も中身も陽気な人格である。
 家名がうんたらかんたらと厳しく言いつける人ではない。

 うん、そう。わかってはいるんだけどね。
 やっぱりお世話になっているのに、好き勝手し過ぎるのも気が引ける。
 それに頑張ったら頑張ったで伯爵も褒めてくれるし。正直好きな顔に褒められるのも気分がいい。あの人が褒め上手っていうのもあるんだけれど、まあ、だから余計に頑張れるんだけどね。

「これは言えない……さすがに」

『エスターテ』は一週間後。それなのにパートナーが未だに見つかっていないなんて。
 というより今現在の私には、学園内でお友達と呼べる人がいない、なんて。

 保護者も参加自由の『エスターテ』で、自分も行くとはしゃいでいる伯爵には、言えるはずがない!!


 ◆

 思えばこの二ヶ月間。学生としての青春はすべて勉学に注いできた。
 学園生活に慣れるというよりは、平民だったゆえに遅れていた知識を付けるので必死だったのだ。

 私は思った。友達は作ろうとしなければ作れないと。
 友達は作るものじゃない。いつの間にかなっているものだと言っている人がいるけれど、んなわけない。努力しなければ手に入れられない絆である。

 あー失敗した。
 目立ちたくなくて大人しめなキャラを作っていたが、余計に人が寄ってこなくなったよね。どうやら女子生徒は意識が高い貴族の令嬢で割合を占めているみたいだし、元平民の私に近づこうとするもの好きもいない。
 加えて私が二ヶ月間、学園で熱心に熱く語りかけていたのは、机と本と羽根ペンである。そりゃ友達なんてできるわけがない!

「失礼します。アイリス・ペテンシアですが」

 聖堂を飛び出して私が向かったのは、学生課だった。
 学生課では、シーズンパーティーが近づくとパートナー募集をしている生徒を紹介してくれる。
 実を言うと一週間前にも訪れたのだが、その時は該当者が誰もいなかった。
 一週間後、また名簿が更新されるということで来てみたのだけれど、『エスターテ』まで残りわずかの日数でパートナーを探している生徒などいるのだろうか。
 
「ああ、ペテンシアさん。実は──」

 学生課の事務員さんが、少し戸惑った様子で私に目を向ける。そして、何かを言おうと口を開いたところで、

「まったく、我が弟には困ったものだね。まだパートナーを決めていなかったとは」
「いやあ、決めてはいたよ。ただ、その人にはすでに相手がいたんだ。仕方ないだろう?」
「ならば、別の女性を見つけるべきだろう?」
「うーん、それはそうだけど。気が変わるかもしれないじゃないか。公式な婚約関係は結んでいないんだし、だからこうしてギリギリまで……って、うそうそ、冗談冗談。怖いなぁ、兄さんは」
「……あの、先ほどから話がよく見えないのですが。もう学生課に到着致しましたよ。それとエド、エスターテはもうすぐよ。パートナーも決めずにいるのはあなたにとってもよくないわ」
「ほら、エリーもこう言っているだろう。さっさとパートナーを決めてくれないか」
「……はいはい、わかりましたよ、っと」

 背後からそんな会話が聞こえ、私は思わず振り返る。
 こちらに向かって歩いてくる三つの人影に、学生課に訪れていた他の生徒の視線もすべて注がれた。

 どうしてこんなところに、エリザベス様とフィリップ殿下が。それにもう一人の青年は、フィリップ殿下の腹違いの弟であるエドワード殿下だ。

 乙女ゲームのストーリーでは、エドワード殿下も攻略対象キャラであった。
 フィリップ殿下ルートに進めば反対勢力にあるエドワード殿下と敵対し、逆にエドワード殿下ルートに進めばフィリップ殿下と敵対関係になるという、そんな間柄にある二人なのだ。

 しかしそれもゲームでのシナリオである。今の二人は、そこまで切迫した関係には見えない。
 フィリップ殿下が隠れ腹黒属性ならば、設定上エドワード殿下は女たらしのフェロモン属性を持っている。
 そのキャラ設定に間違いはないようで、先ほどからエドワード殿下の周囲を漂うフェロモンが凄い。なんというか、上品なエロス。……何考えているんだろう、私ってばパートナー探しで疲れているんだ。

「……あら、アイリス様?」

 いけない。ぼうっとしていたら、エリザベス様が私に気づいたようである。あ、わざわざ近寄ってくれた。
 
「ごきげんよう、エリザベス様。こんな所でお会いするなんて、偶然ですね」

 よそ行きの笑顔を作る私に、エリザベス様はふんわりと微笑んだ。その表情はまるで聖母のような、女神のような、どちらにしても美しい。絶対にこの人ヒロインだよ。

 エリザベス様が近づいてくれば、残りの殿下二人も自然とこちらに接近してきた。
 
「やあ、アイリス嬢。なんだかとても久しい気がするね」

 さり気なくエリザベス様の隣を死守しつつ、フィリップ殿下も話しかけてくれた。
 そりゃあ、イベント的なことは避けて黙々と勉強していたので。
 と、本音はもちろん言わない。

「ええ、そうですね。ごきげんよう、フィリップ殿下。それと……」

 私はエドワード殿下の方を向いた。エドワード殿下とこうして対面するのは初めてだ。よく学園の中庭で代わる代わる貴族のご令嬢と仲良さげに談笑しているのを見かけていたけれど。

「お初にお目にかかります、エドワード殿下。アイリス・ペテンシアと申します」
「……ペテンシア? ああ、きみが例の……」

 頭を下げていれば、そんな声が聞こえてくる。
例のって言うのは? 元平民のって意味なのか、それともフィリップ殿下にアタック(誤解)していたと噂されていたときのことを言っているのか、どちらだろう。

 なんてことを考えていれば、エドワード殿下が流れるような動きで私の手を取ってきた。

「はじめまして、ペテンシアの姫君。お会いできて光栄だ。まさか姫君がこんなに可愛らしい人だったなんて、どうして今まで会えなかったんだろう」

 手の甲にそっとエドワード殿下の口が触れる。これは一種の挨拶だ。やる人はやるし、フェロモン属性のエドワード殿下ならむしろ自然の行動なのだろうけど。

 ……か、かゆい! むず痒い。
 手の甲も痒いが、言葉の端々がとても痒い。それなのに様になっているところがさすがで恐れ入る。

「お褒めいただきありがとうございます」
「ここは学園なんだから、そう畏まらないでいいよ。俺のことはエドと呼んでくれ。他の生徒もそう呼んでいるから」

 随分とフレンドリーな王子様だなあ。実際はもっと厳しいのだろうが、彼はどうやら一生徒として接して欲しいらしい。

「……では、エド様と、そう呼ばせていただきます」

 相手がそう言うならばと素直に頷けば、エド様はほんのりと瞳を開かせた。
 え、なに? どういう反応? 

「……ハッ!」

 エド様の反応に些か不安を感じていれば、その様子を端から見ていたエリザベス様から素っ頓狂な声が聞こえた。

「エリザベス様、どうかなさいましたか?」
「あ、い、いえ……どうということでは。あの、もしやアイリス様、ここへは『エスターテ』のパートナーをお探しになっていたのではなくて?」
「──え、どうしてそれを」
「まあ、やっぱりそうなのね!」

 途端にエリザベス様の顔の輝きが増し始める。眩しいが、一体何を考えているんだろう。
 ちなみに隣にいるフィリップ殿下は、もはやそれすら微笑ましそうに見ている。

「あの、エリザベス様?」

 実を言うと、あまりエリザベス様とは接触したくなかった。
 というのも、彼女が悪役令嬢だからとか、乙女ゲームのシナリオが〜とかではなく、前に私にちょっかいを出していた令嬢たちが睨みを利かせているからである。
 あれですよね。生徒たちから憧れの眼差しを向けられるエリザベス様と、私が仲良くするのが気に食わないのだ。よくある心理だ。

「アイリス様! 実はですね──」

 ふとエリザベス様に手を握られ、ドキリとする。
 あからさまに「わたくしいいこと思いつきましたわ!」と言わんばかりの表情に、私の口端が引き攣っていくのを感じた。


 ◆


「ね、アイリス。ヴォイスからさっき聞いたよ。今日は学園の友人と街へ出かけてくるんだって」

 私と対面するように朝食の席に座るのは、ペテンシア伯爵家現当主のシーク・ゼス・ペテンシア。私を養子に引き取ってくれたペテンシア伯爵その人である。

「そうなんです。昨日急に決まりまして。ごめんなさい言いそびれてしまって」
「ん? ああ、いいんだよ。昨日は僕も帰ってきたのが夜中だったんだから」

 伯爵はくすくすと笑い「きみは本当に律儀な子だよね〜」と言った。
 その後に左手に持ったフォークで皿の上のトマトを端っこに避けていた。伯爵はトマトが苦手なんだよね。

 確かヴォイスさん……伯爵が一番に信頼を寄せている執事さんの話では、今日の伯爵の予定は午後からのはず。
 だからなのか服装はとてもシンプルで、仕事中は必ず後ろに流すか、ふんわり横に寄せてセットする前髪も、適当に梳かしてあるだけになっている。
 昨日も帰りが遅かったのだから、自室でゆっくり休んでいて欲しいのに、こうして顔を出している。私より伯爵のほうが律儀だと思う。

「それにしても嬉しいな。きみが友人と街に遊びに出るなんて、今回が初めてだろう? 正直心配していたんだよ。君を迎え入れたはいいけれど、強引だったんじゃないかって。学園で辛い思いはしていないかって」
「……ペテンシア家にお世話になると決めたのは、私です。それに学園のことも、伯爵が心配するようなことは特にないですよ。とても充実しています。楽しいです」

 主に勉学が充実した二ヶ月間だった。友達はいないけど、学園生活自体は楽しいし。だって学園の造りがまんま西洋のお城みたいだから。眺めているだけで楽しい。

「……本当かい?」

 うん、嘘は言っていないと自分の心に言い聞かせていれば、伯爵がその糸目をスっと開かせた。
 白銀に揺れる前髪の隙間から、エメラルドに透き通る瞳に見つめられ、私の体は一瞬だけ跳ねる。

「きみはあまり学園でのことを多く語らないからね。何か困ったことだとか、気になっている人がいるだとか、なんでもいいんだよ」

 開眼させた伯爵って、どうしてこうも迫力があるんだろう。全部を見透かされているような、不思議な気持ちになってくる。

「はい、伯爵。今のところ何も。私は大丈夫です」
「……そう。わかったよ」

 なんだか伯爵、少ししょんぼりしている気がする。

「それはそうと、そのご友人とは一体誰なんだい?」

 糸目に戻った伯爵は、いつものように飄々とした笑みを浮かべた。
 どうやら私の思い過ごしだったようだ。
 胸をなでおろし、私は「友人」の名を言おうと口を開いた。


 ◆


「ははは、見事に二手にわかれたねぇ」

 街の中央広場にある噴水の前で、途方に暮れる私の横にいるその人は、けらけらと笑った。

「エド様……本当に、申し訳ございません」
「いやいや、きみが謝ることはないって。転んだきみを助けていたら、いつの間にかフィリップとエリザベスがいなくなっていたんだから」
「まあ、そうなのですが……」

 申し訳ない。本当に。
 私は心の中でまた謝った。
 エドワード殿下、あなたの恋路の邪魔をしてしまい申し訳ございません、と。

「あの二人はどこに行ったんだろうね。……まあ大方、フィリップの仕業だろうけど」
「……」

 私は今、街へと出かけていた。
 それも隣にはエドワード殿下がいる。

 なぜこのようなことになっているのか。そう問われれば時は一日前に戻るが、事細かに回想するほどでもないので端折って説明。

 それは昨日、学生課で鉢合わせたエリザベス様からある提案を出されたことが始まりだった。
 私は『エスターテ』のパートナーがまだおらず、そしてエドワード殿下もいなかった。
 そこでエリザベス様は、私とエドワード殿下が組めばいいのではと言ってきたのだ。そこまではまだ理解できる。
 お互いパートナーいない者同士、そして『エスターテ』まで時間がない。組んだらどうか。そこまではよかった。
 ちょっと意見を述べるなら、どうして攻略キャラに相手を絞る必要があるのかと思うけど。普通のモブと呼ばれる男子生徒ではダメなのかと。忘れた頃にやってくる忌々しいヒロイン補正がこわい。

 そうしたらエドワード殿下が、こう言った。

『じゃあ、お互いを知るために明日街へ出かけてみよう。ちょうど休日だし。そうだ、エリザベスも一緒にどうかな? アイリスちゃんもその方が緊張しないだろうし』

 すると、それを聞いていたフィリップ殿下がちょっと待てをかけてきた。

『エドワード、アイリス嬢との外出に、わざわざエリーまでついて行く必要ないだろう? 口が達者なお前のことだ、アイリス嬢の緊張をほぐし楽しませることもきっとできるさ。パートナー同士、二人で出かけてくるといい。ね、エリー──』
『そうね。わたくしもご一緒してよろしいなら』
『エリー……!?』

 どういうわけか、エリザベス様はエドワード殿下の提案に乗った。
 これにはフィリップ殿下も瞠目させていたが、エリザベス様が行くならと、結局フィリップ殿下も一緒に街へ出かけることになったのだ。
 なんという、芋づる式。

 だいたいお互いをそれなりに知るなら、少しの会話でも十分な気がする。内心そう思いつつも、口には出せなかった。だって相手はこの国の王子たちと、次に権力を誇る公爵家のご令嬢。

 朝の食事の際に伯爵に言った「友人」とは、彼らのことである。
 実際は友人という間柄でもないのだが、要らない心配を伯爵にかけたくないのでとりあえず友人ということにしておいた。

 そうしてそれぞれ平民の変装をして街へ繰り出したわけだが、ちょっと四人で市場を回り次の目的地に移動している最中で、私は通行人とぶつかり転倒。
 エドワード殿下が手を貸してくれていた一瞬の間に、エリザベス様とフィリップ殿下の姿が消えていた。

 ──そして、今に至る。

「どうしましょう。エド様、お二人を探しに行きましょうか?」
「いや、その心配はないさ。きっと少し待てば現れるはずだからね」

 二人とはぐれた私とエドワード殿下は、とりあえず目的の場所だった中央広場へと来ていた。
 ここでは休日になると豪華なバザーが開催されるので、その見物でもしようという話だったのだ。

 二人の心配というよりは、どっちかというとエド様の心理状態のほうが気がかりだ。
 昨日の今日で察したけれど、エド様……エドワード殿下はおそらくエリザベス様のことを好いている。

 エリザベス様を挟んで(もちろん本人は気づいていない)フィリップ殿下と視線だけでバチバチにやり合っていたし。
 この休日のお出かけも私と交流を深めるというよりは、エリザベス様とお出かけしたかったからだろう。つまり私は完全にダシにされたわけですね。

 エリザベス様を個人的に誘えばフィリップ殿下の目があると思い、ちょうどいい私が同行することになった、という感じだ。
 え、私ってむしろ今は邪魔じゃない? 大丈夫?

『エスターテ』でパートナー関係を結ぶことになったけれど、とりあえず今回限りのエスコート役になってくれるのならそれだけでいいし。
 私もそれなりにダンスの特訓はしてきたので、相手の足を踏んづけるという失態も回避できるだろう。

 ……うーん、じゃあ、今日は帰っていいかな。

「あの、エド様。私はここで待機しています。お二人も同じくこちらにいらっしゃるかもしれませんし、行き違いにならないように」

 なので、さっきからエリザベス様とフィリップ殿下のことを気にしてソワソワしているエド様、早く探して来ていいですよ。
 
「……アイリスちゃんて」
「どうしました?」

 学生課の時と同様に、またエド様は興味深そうな様子で見下ろした。

「噂はやっぱり当てにしない方がいいね。その見た目と違って、性格も思っていた子とだいぶかけ離れてるみたいだし」

 見た目と性格については私も自覚している。乙女ゲームのヒロインである今の私は、かなりおっとりとした可愛らしい顔の作りなのだ。
 ゲームの立ち絵も基本はふんわりと微笑んだ顔をしていたし、ヒーローからしたら守ってあげたくなるような女の子、なんだろう。つまり見た目は愛らしい。うわ、自分で言ってしまった。

 姿は乙女ゲームのヒロインちゃんと何ら変わりはない。だから見た目は癒し系だが、雰囲気は違うだろうな。常に笑顔をキープもできないので真顔が多いし。

「学園の女の子たちの話では、アイリスちゃんはフィリップに近づこうとしたらしいけど……」
「ああ、その噂ですか。誤解ですね」
「だよね。君のことを観察してたけど、フィリップを意識しているようには見えなかったし」

 え? 今日さっきの行動でそんなところをチェックされていたの? 

「また別の噂では、エリザベスに嫌がらせまがいのことをしていると……」
「それは初耳ですね」

 なにそれ酷い。そんな噂を流した人は相当暇なんだろう。

「まあ、それは本当に根も葉もない噂だったんだけどね。その噂の出処は掴んでいたから、フィリップが上手く対処していたけど」

 私の知らないところで、私がエリザベス様の嫌がらせをしている人物に仕立て上げられていて、私が知らない間に問題が解決していたらしい。
 
「だけど、火のないところに煙は立たない……って、言うだろ? だから今回──」

 そう言って、エド様は言葉を切る。
 私はエド様から目を外して、彼の視線の方向を確認した。

 エド様が見る先には、エリザベス様と、フィリップ殿下がいた。
 何かあったのだろうか。エリザベス様はフィリップ殿下の腕に手を添え、戸惑った様子でこちらに歩いて来ている。

「エリー……」

 不意に、エド様のそんな呟きが耳に届いた。
 とても小さく、なんだか崩れてしまいそうな、そんな声音。

 ……そう言えば、エド様はエリザベス様のことを「エリー」とは呼んでいなかったはず。
 フィリップ殿下とエリザベス様は幼少期から交流があったと聞いている。そして、それはエド様も。
 エリザベス様はエド様のことを「エド」と呼んでいるし、おそらくそれは本当なのだろう。

 けれどエド様は、普段エリザベス様のことを「エリー」とは呼ばない。なのに今、焦がれたように呼んでいた。

「……」

 うっわ、切ない。
 完全にエリザベス様に恋焦がれているんだけどエド様。もうこの人絶対にエリザベス様にほの字やないかーい。

 「エリー」と「エリザベス」。このふたつの呼び分けには、きっと彼なりの線引きがあるのだと、彼の顔を見てそう確信した。

 つまり今回は、交流という名の、エリザベス様に害がある者かどうか確かめるためにも私を誘ったのですね。なるほど。
 ええ、私ってばなんか凄い悪者扱いされてるんだけど。普通に教養を身につけようと必死になっていただけなのに。解せない。

「……! あ、俺、いま……」

 突然、弾かれたようにエド様が顔を私の方に向けた。
 どうしました、そんなに慌てて。

「アイリスちゃん、今の、聞いてた? よね、いや……」

 エド様が取り乱すところなんて初めて見た。言うてそこまでエド様に関して詳しくないけど。
 フェロモンの貴公子であるエド様がこうも落ち着きないのは珍しい。

「ええと」

 そういえば、と私はエド様のキャラ設定を再び思い起こす。
 詳しいところは分からないけど私の知る限りでは、エドワード殿下というキャラは決して『本気』を見せない人物である。
 勉学においても、王子殿下として公に立った時でも、そして……人との関わりにおいても。

 女性への軽口は、もはやエド様だからと周囲は納得している。
 腹違いの兄殿下、フィリップ様の婚約者であるエリザベス様に対する口説き文句にしても「ああ、また言ってるよあの人」みたいな目を向けられるだけ。
 そう、決して他者は、エド様の言動を「本気」とは捉えない。

 彼は自分が本気を見せることを、弱点だと思っているような傾向にあった。その理由までは覚えていないけど。
 先ほどのエリザベス様を「エリー」と呼んだエド様は、彼女に対して「本気」の目をしていた。それを横にいた私に見られてしまったと、彼は焦っているのだ。

 誰も彼が本気でエリザベス様に恋心を抱いているとは、思いもしないから。

 あ、でもフィリップ殿下だけは気づいているみたいだけどね。
 だからお互い牽制し合っているみたい。今日一緒に同行していて気がついたよ。
 本当にエリザベス様ってばモテモテだ。確かフィリップ殿下の側近の人もエリザベス様のことを気にかけているみたいだったし。

「お二人のもとへ行きましょうか、エド様」
「え……?」
「どうかしましたか?」

 私がここですべきなのは、極力触れないこと。無闇に彼の心情に触れようものなら、次のイベントという名の導火線に火を灯しかねない。

 そう、この世界は、隙さえあればイベントを起こそうとしてくるのだ。
 学生課でのことで納得がいった。エドワード殿下と初対面を終えただけで、街でのお出かけイベントへと発展してしまったのだから。

「思ったよりも早く見つかってよかったですね」
「そう、だね」

 私の態度に戸惑っているようだが、それも知らぬフリでやり過ごす。
 とりあえず気まずい雰囲気にならないようにしよう。『エスターテ』が終わるまでは、何食わぬ顔でいよう。また一からパートナー探しをするのは、さすがに堪えるので。

 それにしても、エリザベス様はいったい誰が好きなのだろう。
 恋心が無いにしても、気になっている殿方はいるのだろうか。

 このままフィリップ殿下とゴールインなのか、それとも……。
 私は昨日の学生課での、エド様とフィリップ殿下の会話の一部を思い出した。

『まったく、我が弟には困ったものだね。まだパートナーを決めていなかったとは』
『いやあ、決めてはいたよ。ただ、その人にはすでに相手がいたんだ。仕方ないだろう?』
『ならば、別の女性を見つけるべきだろう?』
『うーん、それはそうだけど。気が変わるかもしれないじゃないか。公式な婚約関係は結んでいないんだし、だからこうしてギリギリまで……って、うそうそ、冗談冗談。怖いなぁ、兄さんは』

 フィリップ殿下と、エリザベス様は、公式な婚約関係を結んでいない。
 そう、公式な! 婚約者関係を! 結んでいない!
 まじかよ、ここ最近で一番の驚きだったよね。

 それが真ならば、これからエリザベス様を巡って新たな物語が展開されるのではないかと。

 ああ、エリザベス様早く気づいて。
 もう意中の殿方がほかにいらっしゃるのならば、これ以上面倒くさいことになる前に。
 絶対にフィリップ殿下とエドワード殿下と、側近くん以外にもエリザベス様を好いている攻略キャラがいることを! 学園でお見かけした限りではあと三人はいるよね!

 私は今回の件を機会に、また乙女ゲームの世界では悪役令嬢キャラであったエリザベス様に物申したいことが増えた。

 とはいえ、なかなか一人でいるエリザベス様に近寄れないんだけどね。
 私がシナリオやルートを全力回避していたのもあるけれど、エリザベス様の周りにはゲーム上に登場するいろんな人達が立っているから。

 どうして街への外出に自分も行くと言い出したのか。分かりやすい顔をして何かを企んでいるようだったが、その目的はなんなのか。

 そして、あなたが選ぶ人は、誰なのかと。

 そう言える日は、果たしてくるのだろうか。



 ◆


 後日、無事に『エスターテ』が開催された。

 パートナーであるエド様と一曲踊り、ちょっと休ませて欲しいと言って私は彼をエリザベス様の元へ行くように促した。
 遠目から確認すると、エリザベス様の周囲には男性陣が囲んでいた。

 あれ、他にも女の子がいる。
 あれは誰だろう?

「アイリス」

 気になって背伸びをしていると、私の名を呼ぶ声が聞こえた。

「伯爵……本当に来てくれたんですね」
「当たり前だよ。公式な社交界ではなくても、きみのデビュタントであることには変わりないから。ドレスで着飾ったきみを屋敷では見ることができなかったしね……よかった間に合って」
「……」

 うわあ、伯爵が肩で息をするくらい急いで来てくれたことが嬉しすぎて言葉が出ない。いつも余裕そうな涼しい顔を崩さないから、余計に。

 今日は商談が多く入ったとかで、参加は難しいかもしれないってヴォイスさんから前もって聞いていたのに。

「伯爵。どうぞ、ハンカチです」
「ごめん、ありがとう」

 汗ばんだ額にハンカチを渡そうとすれば、なぜか一歩近寄ってくる伯爵。
 え? 拭けと? いいんですか?

「し、失礼します」

 数秒固まったが、拭いてよさそうだったので、その肌にハンカチを添えた。

「ん、ありがとう。アイリス」

 伯爵が開眼をして微笑めば、周囲からほうっと熱のこもったため息が聞こえてきた。

 そう、今日は在校生の親族ならば参加自由の『エスターテ』。
 なので先ほどから、在校生たちの姉や妹と思わしき未婚の女性の顔も多く見受けられる。
 伯爵は私を養子として引き取ったとはいえ、未婚の成人男性だ。今も狙っている貴族のご令嬢たちは多くいるだろう。
 なんせこの顔で、そして資産もとんでもないから。

「綺麗だよ、アイリス。君にとって特別である今日のドレスや飾りは、絶対に僕が見立てたものを身に包んで欲しかったからかな。自分のことのように嬉しいんだ」

 自分としてはデビュタントという意識がほぼ皆無だったので、そう言われると申し訳ない。
 それでも伯爵は嬉しそうに笑っているので、まあそれでもいいかと適当に考えた。

「はい、とても着心地が良くて綺麗な生地なので、さっきも色んな方にどこのお店のものなのかと尋ねられました。すべて“テレシア商会”のものだと説明をしたら、納得していましたよ」

 私が着ているドレスや装飾品は、すべて伯爵が選んだものだ。
 伯爵は、ペテンシア伯としての領地経営や政務補助を行う他にも、多くの名前と顔を持っている。

 その名のひとつがテレシア男爵だ。伯爵位のほかに男爵位を持つ彼は、衣服や雑貨を貴族向けと平民向けにランクを分けて扱う『テレシア商会』の会長を務めている。
 いち早く流行を察知し、新しいものを生み出す力に長け、商業界を大きく盛り上げていた。
 
 僭越ながら私もたまに平民目線として意見を言うときもある。
 いろんな人の感性を取り入れたいと伯爵が言うので、前世で便利だったなあと感じていた品物を軽く濁して提案していた。
 でも、構造や仕組みを一から考えるのは伯爵である。私はぽやっとしたアイデアを並べるだけだが、それを汲み取って形にしてしまう伯爵ってやっぱり只者ではない。

「そうだ。この硝子細工が一番関心を集めていました。宝石でもないのに、これだけ輝きのある品は珍しいみたいです。今日付けているものはデザインが涼しげなので、これからの季節には手を出しやすいんじゃないでしょうか」

 私はすべて硝子でできた髪飾りを指さした。

「……うん、そうか。とても参考になるよ」
「この硝子細工も、これから市場(しじょう)に出すんですか?」
「いや、このデザインでは出さないよ。商会として売り出すデザインはまた別にあるから」
「そうですか。かなり注目を集めていたので、てっきり売り出すのかと思いました」
「うーん、それはありがたい反応なんだけど。これは、きみのために作らせたものだから」
「え」

 こんなに高そうなもの? わざわざ?
 ぎょっと驚いていれば、伯爵は私の頭にある硝子細工にそっと触れた。

「言ったじゃないか。今日はきみのデビュタントなんだよ、と。うん、やっぱりとても似合っているね」

 そっと覗かせたエメラルドの瞳が、優しく輝いた。
 伯爵の至近距離の開眼は心臓に悪い。

「ありがとうございます、伯爵」

 これは女性にモテるのも頷ける。乙女ゲームの攻略キャラたちもそれぞれ人気な要素はたくさんあるが、この包容力は伯爵がダントツな気がする。身内目線ではなくて、一般的にも。

「アイリス? どうかした?」
「……? なんですか?」
「……僕の気のせいかな。顔が火照っているような」
「それは気のせいですね! はい、伯爵。きっと気のせいですよ! あ、ダンスが始まるようなので、一緒にどうですか! ささ、行きましょうか!」

 作法もすべて吹っ飛ばして、私は伯爵をダンスホールへと案内していた。
 ああ、せっかく学習した礼儀作法が台無しじゃないか。

「ふ、そうだね。行こうか、アイリス」
「……」

 伯爵は特に追求もせず、先走って歩いてしまった私の手を優しくとってくれた。

 しまった。会場内の温度が高くて暑いんですと言えばよかったのに。
 どうしてわざわざ否定するような言い方をしてしまったのだろう。

 悶々とするものの、ダンスが始まればその余裕はなくなった。
 上手くステップを踏むことだけに神経を注いでいたため、それらの考えは二の次となったのだ。

「そうそう、アイリス。ダンスが終わったら、挨拶に付き合ってくれるかい? この機会に、僕からもアイリスのことを紹介しておきたいから」

 ダンス後は、伯爵の言葉通り挨拶回りに努めた。
 学園の生徒以外の参加者たちは、皆して伯爵をご存知のようで、またしても伯爵の知名度の高さに感服する。
 私を成り上がり貴族だと影で言っていた生徒たちは、伯爵と並んで挨拶する私の姿に目を丸くしていた。
 わざわざ伯爵が私を連れ立って挨拶回りをしていることが信じられないようだった。

「うん、これでよし。ごめんね、アイリス。この二ヶ月、学園で窮屈な思いをしていただろう。もうこれで、周りは完全にきみをペテンシアの人間として接するはずだよ」

 伯爵の横顔を窺うと、彼はまた目を開いてくすりと笑っていた。
 その伯爵の表情に、私は血の気が引くのを感じる。

 ……ば、バレていたんだ、全部。私に友達がいないことに。ちまちまとした嫌がらせや陰口を叩かれていたということに。
 後から聞けば、私がパートナーを見つけられずにせこせこ動き回っていたことも、ヴォイスさんの調査で知っていたらしい。
 私が交流関係そっちのけで、ガリ勉化していたことも。
 
 うわー! 恥ずかしい! 情けない!

 そうして伯爵の横で居た堪れずに終わった『エスターテ』の翌日。私に向けられる周囲の目が明らかに変わった。

 伯爵にはすべてバレていたけれど、結果的に学園内での生活がしやすくなった。プラスに捉えよう。
 あと、伯爵に隠し事は通用しないので、これからは逐一学園であったことは知らせようと思う。伯爵にもそうして欲しいってお願いされたので。

 そういえば、伯爵は乙女ゲームの中で、お助けキャラの役割をしていた。
 は、そうか。だから朝食の席でも「気になっている人は」「困ったことは」と尋ねてきたのか。
 本当の乙女ゲームと違って選択肢があるわけじゃないし、全く分からなかった。なんというトラップ。


「……しかも、伯爵にまで第一王子狙いだと思われていたなんて……」

 ──きみはフィリップ殿下に想いを寄せているの?

『エスターテ』の帰り道、馬車の中でそう伯爵に問われたとき、私は全力でそれを否定した。
 あそこで『はい』と答えていたら……その先は考えるだけでも面倒くさい。
 だから今回は先手を打ってフィリップ殿下を何とも思っていないことを、伯爵に物申したのだ。

 全力で「違います」と断言できたのはいいけれど、その後の伯爵の顔は今までにないくらい綻んでいるような気がして、妙な心地になった。